平成16年健康指標プロジェクト講演会要旨 |
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第50回例会記念講演会
「知のフロンティア−健康といのちの科学をめざして」 (7月3日(土) 13:00〜17:00、「芝蘭会館」稲盛ホール) |
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開会挨拶 健康・いのちを考えるー文理融合型サイエンスの勧め |
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菅原 努 ((財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長 国立京都病院名誉院長、元京都大学医学部長) |
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その内容は毎回自分達で出版している隔月刊の雑誌「環境と健康」に掲載するとともに、その中から選んだものを「シリーズ21世紀の健康と医生物学」全5巻(昭和堂)として出版しました。しかし、今振り返って見ますと、内容的に本当に要素還元主義を超える道を示しえたか、はなはだ疑問であります。結局我々自然科学者だけでは、それぞれが永年身につけた20世紀の成功の基である要素還元主義から一歩も出られなかったのではないか、というのが正直な感想です。
そこでこの我々にとって大切でしかし極めて難しい「健康・いのち」を理解するのには、もう文理の壁をとっぱらうより方法はないと思うようになりました。それがこの「文理融合型サイエンスの勧め」です。その手始めとして昨年の夏に近江舞子放談会というのを開催していろんな方に集まって頂いて、三人の文系の方のお話を聞き、それを巡って放談をしました。その記録がみなさんのお手許に差し上げた冊子に入れてあります。それを読みますと折角我々自然科学者と違った観点からのものの見方を話されているのに、それへの討論は矢張り自分の自然科学的な考え方を出られていないのではないかと反省させられます。 でも私なりに少しづつ勉強をしてきました。その一端をご紹介したいと思います。今日最初に小川先生に現象学のお話をしていただくわけですが、先ず「現象学」って何だろうと、本屋で解説書を探して来ました。しかしこれは私が間違った紹介をするといけませんので、小川先生におまかせすることにさせて頂きます。先生によると、それは現れの学だが、現れとはさしあたり見えるものだ、しかし同時に直接見えないものも含めなければならないと言うことのようです。科学者は見えるものばかり相手にして満足していましたが、それでは駄目だと言われてみるとその通り、医学が生物学一辺倒になって患者を忘れているなどと言われるのは正にその点です。 次に尾池先生からは地震の話をお聞きするわけですが、地震、雷、火事、おやじと昔から恐ろしいものの代表ですが、今の言葉になおすとそれへの対応はリスク学の問題です。そこでこのリスクを巡って文系と理系とで大きな認識の違いがあることに最近気が付いたのです。最近牛のBSEの問題でもよく安全と安心と言う事が言われますが、これが問題なのです。私たち自然科学的に考える者には、安全対策を十分にしたから安心してください。逆に言えば安心を得るためには安全対策を十分にすればよい、ということになります。ところがこの私の意見は社会心理学者にまっこうから批判されたのです。彼らに言わせると不安というのは安全を得るために欠かせない大切な心理的な働きで、怖れがあるからこそ何とか身を護ろうとするのだ。なまじっか安心してしまったら、安全は護れない、というのです。私は微量の放射線への人々の怖れを解こうとして、その影響の研究を進めてきましたが一体その方向は良かったのか、反省をせまられているところです。 最後に井村先生からこれからの我が国の進む方向としての科学技術政策のお話があります。これに関連して、私は日本と西洋との二つの文化的比較についてご紹介したいと思います。 一つは、高階秀爾東大名誉教授監修「西洋の美・日本の華 サントリーコレクション」(2000)です。西洋の画家は自分の目を大事にします。自分の見たものをどのように表現するかが大切です。これに対して日本の画家はあるものを描きます。例えば夜の街は西洋では明かりだけが描かれていますが、日本では夜でも人や物がはっきりと描かれています。あるものが大切なのです。 もう一つ、自分が大切な事が言葉に表れているのが主語だ、英語ではそれは物事を描く時に神の視点に立つのだ、というのが言語学者の金谷武洋の主張です。かれは「ある」日本語、「する」英語とも表現しています。「いのち」に迫るのは一体どちらでしょうか。表情や態度とともにただ「愛してる」と言う日本語と、“I love you.”という英語との違いは何処にあるか、考えてみてください。 明治の維新に、文科と理科とを切り離して、科学的思考を必死になって受け容れてきた我が国ですが、もう一度我が国の文化の優れたところも大いに活用する必要があるのではないでしょうか、そのためにも文理融合こそ欠かせないのではないかと言うのが私の提案です。
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