略 歴
1969年 京都大学文学部哲学科哲学(いわゆる純哲)専攻卒業
1974年 京都大学文学研究科博士課程修了
京都産業大学専任講師,広島大学総合科学部教授をへて
1991年 京都大学人間・環境学研究科教授.
現在 京都大学大学院地球環境学堂,人間・環境学研究科,両任教授.京都大学文学博士.
ケルン大学付属フッサール文庫客員研究員,ドイツアレクサンダー・フォン・フンボルト財団奨学研究員(キール大学およびヴッペルタール大学),カールスルーエ大学教授資格試験審査官,イタリア哲学研究所(ナポリ)客員教授,国際現象学雑誌,Interdisziplinaere
Phaenomenologie の編集長を務める.『比較法史研究(Historia Juris)』編集委員.日本現象学会『現象学年報』編集委員など.
専門領域:哲学とくに現象学、解釈学、古代ギリシャ哲学と政治哲学
趣味:連歌と野菜作り
講演抄録
1. 現象学とはなにか。
現象学とはなにか.それはまさしく現われの学である.現われとはなにか.さしあたりなにか見えるものであるが、しかし、どうじにこれは直接には見えてこないものも含む。現れというもののなかには、現れないものも、つまりは現れないけれども他の現れるものを現れさせるものも含む。たとえば病気というのがそういうものだ。たとえばここに一人の元気で活発な若者がいて、なにも病気はない、健康そのものであるというときには健康の意味は気づかれないし隠れている。隠れているということは、表立っては現われていないということだ。むしろ健康を失ったときにはじめて健康のありがたみ、健康の意味に気づかされる。見えざるものの現象学というのも基本的には同じようなラインで考えることができる。
2. 見えるものと見えないものの関係はどのようなものか。
それでは見えるものと見えないものとの相互関係とはいったいどのようなものなのだろうか。およそこの相互関係というのは、つぎのように考えられる。つまり見えるもの、現れるものが現れるのは、それをあらわにしながら自分は隠れてしまう、いわば黒子のようなもののおかげである。なにか現れないものがあって、この現れないものがはじめて己以外のものを現れさせるのである。日本の文楽や芝居の中で先ほど言ったような黒子とか隠れた裏方というひそかに働きつづける人があってはじめて主役が脚光を浴びるし、また注目されるのだ。この黒子の機能を果たすものを現象学では、「地平」(フッサール)といったり、「脱し去り」(ハイデッガー)といったりする。現われが現れの世界で輝くのは今述べたような黒子もしくは「地平」とか「脱し去り」のおかげなのである。
3. 見えないものとしての雰囲気と<身>もしくは風
私は見えないものの次元にとりわけ雰囲気、「気」、あるいは<身>さらには風というものを認める。「誰が風を見たでしょう、あなたも私も見やしない」という歌があったのを思い起こしてください。旗が風にはためくということはあるが、その場合でも風自身を見ているのではない。薩摩の桜島の煙は風にたなびく。だけど私が見ているのは煙であって風ではない。
日本語で風体という言葉がある。「風のからだ」という風に書くのだが、この風のからだこそは一人の人が己の周囲にかもし出す彼の固有の雰囲気である。「気」といわれるものは、気風、風気(これは、水戸学の概念もしくは術語であるし、吉田松陰などは、「日本は漢土と風気が同じ」という説を述べている。)といわれるものに他ならない。この「気」は、つまりは、風と「気」とがほとんど類似の意味をもつものとして取り扱うことができる。それは、ひとりの人のかもし出す気風(きっぷ)のよさ、あるいは風体というものであり、こういう仕方で日本語のなかに沈殿している。「気」というのは、風や雰囲気と似ている。いずれにせよ風体や気風は身のあり方と密接に関連している。魚屋のいなせな兄さんの気風のよさというのは、彼の身の振る舞いに現れるのである。
見えざるものというのは、したがって、気風、風気、雰囲気という仕方で現れる風体つまり人間の周りにとる体つまり<身>とその雰囲気のことなのだ。じっさい一人の人の風体は直接に感じ取られるしかないものである。
4. 風と「気」、<身>に感知するもの
こういう基本的なラインのうえで次のような問題を考えてみよう。私はさらにこの見えないものを,風とか「気」という次元に見出している.さらには,けっして客観化できないもの,いわば,対象化しないで直接に感じ取るしかないものがある.たとえば,目の前のひとの顔がすこし赤くなっているなどということは直接に見える。だがその人がどうも微熱を持っているらしい,けだるそうだなどということは、直接に感じ取るしかない.あるいは朝起床して今日は身の内に充足を感じ取る。今日も元気だ、という身のうちの充足というものを感じ取る日もあれば、また、朝起きたときから<身>がだるい、なにもしたくない、もはや動きたくない、憂鬱だという日もある。このような気分、感情、雰囲気というものが人間存在をもっともよく規定している。もっと端的に感じ取るしかないものは,たとえば私の身体における私の空腹感,爽快感,けだるさなどといったものである.けだるさなどというものは,京都の7月の初旬は湿気と暑さが極度に混じりあい,なにをするのもしんどいという身の状態を現われさせる.私だけではなく,おそらくすべての人がけだるいのである.このけだるさ、物憂い感じはその人の風体のうちに、要するに、彼の呈示する気分としての雰囲気のうちに現れる。私はこの雰囲気を彼の緩慢な動作のうちに直接に見て取り、感じ取る。
5. プラトンの『フィレボス』における身体と<身>と魂
プラトンは、実際に、『フィレボス』という晩年の対話篇のなかで快楽の問題をあつかう。そのなかで渇きの充足、満足を「触知し」1)感じ取るのはいったい何かと問う。つまり渇きが満足し渇きがいやされているのを触知するのは、いったい、身体なのか、それとも身体いがいのものたとえば魂なのか。飢えについてもおなじ。腹がへったという知覚、感覚が満足させられるときにそれを知覚するのはいったい身体自身なのか、それとも魂なのか、とソクラテスは問うのだ。この問いに対して身体は空っぽの状態にあるから満足、充足を受け取ることはできない、それを受け取る、言い換えると感じ取るのはたましいなのである。「身体いわゆるソーマはまさしく物体でもあるが、この身体は空っぽの状態にある」という。プラトン、『フィレボス』 35b.
要するに、魂が飢えや渇きの満足、充足を受け取るのである。あるいは、知覚するのである。これは、魂が空っぽの身体、空っぽのからだとひとつになっているということを示唆するものである。初期のプラトンがたとえば『パイドン』などで主張した、魂と身体との実体的な分離の思想はおそらく是正されねばならない。つまり、魂と身体とが実体的に分離することが、すなわち死ぬことだという考えは後期のプラトンではおそらく消えるのだ。だからこそこの『フィレボス』では、心身がひとつになっている状態を「エンピュシュコン・オン」(言葉どおりには、魂を内部にもった存在者)などというのである。それは、もっともよく<身>という言葉で理解できよう。つまり、<身>とは、魂が入り込んでひとつになっているような心身の合一体であり、むしろ心身が分離せずにそこから心身のあり方が理解されるようなものである。いわば、心身の区別の脱落態である。心身の区別がもはやできなくなるところである。それは、かぎりなく私の普通の生活の状態である。私はそのつど身の内に飢えや渇きや、それらの満足を、充足を感じ取っている。ここからプラトンは、ソクラテスに語らせる。空っぽの「からだ」というものは、なにも感覚しないし知覚しない。つまり飢えが満たされることも、満腹することもまた渇きがいやされることも知覚しないし感覚しない。「からだ」は空っぽであってそこには生命も魂も宿っていない。ちなみにこれは日本語の「からだ」の語源に同じである。つまり、からだと私たちが呼ぶのは、身の詰まっていない空っぽの殻に「だ」という接尾辞がついたものなのだ。私が身の内に感じ取る動きや衝動、快楽への傾きとその充足の感知ないし触知は、すべてからっぽのからだの行うことではなく、私の魂がおこなうことなのだ。
6. 身体と魂のカオス的な関係
身体と魂との関係はどうなっているのか。それは、一種の複雑系である。この関係を説明するのにどのような概念がふさわしいだろうか。どのように概念的に解明できるだろうか。この錯綜した関係は、ある種の多様性に他ならない。多様性はその要素のあり方によって、つまり部分契機のあり方によって三種類に分かたれる。1)相互に同じあり方の部分、要素からなる多様性、数の多様性、たとえば3は1+1+1である。2)相互に異なった部分からなる多様性。ひとつとして相互に同じ部分、同じ要素はない。これは、ジグソーパズルの例である。3)カオス的多様性。これは、その体系の要素、もしくは部分契機が相互に同一であるか、相互に異なっているのかが決定できない場合である。
さきに述べたのはヘルマン・シュミッツの多様性理論である。この理論は、心身の関係を説明するのに使用できる。心身の関係は、カオス的な関係といったらよいだろう。それは、ひとつの系の内部の諸契機が相互に同一であるのか、相互に異なっているのかが決定できないということである。たとえばある気候のうちにある身は、その気候と同じであるのか異なるのかは決定できない。私の身は気候の湿っぽさ、蒸し暑さから決定的に影響を受け、その気候のなかで私の魂、私の心、要するに私の意識は生きているから気候と身と心はカオス的な関係にある。気候と身は同じものによって通底しているがしかも両者は同じものとして現れていない。同一か異なるかが決定できないものはカオスである。気候は身や心との関係においてはその意味でカオス的な多様性である。気候の宇宙に見出される身と同じように身のうちにある心は身とカオス的な関係にある。
註1) 田中美知太郎はここの ephaptesthaiを「探り当てる」と訳しているがこれはすでに魂が身体とは異なった、しかも魂と実体的に分離されたものというニュアンスを伴うので私は受け入れることができない。その他、岩波の田中美知太郎訳の『フィレボス』はデカルト風の心身の二元論を前提して訳しているところが多くある。私は以前に『人間存在論』に掲載したプラトンのテアイテトス論においてもこれを指摘しておいた。ヘラクレイトスはこの言葉の語幹となっているaptesthaiをDK 30,Mansfeld62で使用しているが、これは、触れることによって点火するという意味なのである。
主な著書など
現象のロゴス、勁草書房、 1986
現象学と文化人類学、世界書院、1989
現象学と構造主義、世界書院、1990
自由への構造、理想社、1996
Interkulturelle Philosophie und Phaenomenologie, Iudicium: Muenchen,
1998
風の現象学と雰囲気、晃洋書房、2000
雰囲気と集合心性、京都大学学術出版会、2001
Grund und Grenze des Bewusstseins, Wuerzburg 2001
Machiavelli e la Fenomenologia, Napoli 2003
環境と身の現象学、晃洋書房、2004など.
編訳として
シュミッツ・身体と感情の現象学、産業図書、1986
クラウス・ヘルト・現象学の最前線、晃洋書房、1994
その他,日本欧米に専門雑誌に論文多数.
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