2010.2.27
 
Books (環境と健康Vol.23 No. 1より)

 

阿古智子 著

貧者を喰らう国−中国格差社会からの警告


(社)新潮社 ¥ 1,400+税
2009 年 9 月 20 日発行 ISBN978-4-10-318331-0

 

 


 評者は本誌Books 欄で、これまでに「格差社会の構造」(21 巻2 号)「教育は格差社会を救えるか」(21 巻3 号)を取り上げたが、本書は「格差社会を生じさせない」という共産主義の理想に反して出現した、社会主義市場経済下の盲点としての中国格差社会の現実を実地調査したものである。15 年前から始めた困難な住み込み調査の過程で、住民と共に国家安全局に拘束され取調べを受けた体験も交えられていて臨場感にあふれている。

 本書は5 章からなり、1990 年以後の急激な市場経済化によって、荒廃した農村での収入源としての売血ビジネスに発するエイズの拡大の悲劇を目撃した第1 章から始まる。続く3 つの章で農村の戸籍制度と土地制度に拘束されながら都市で働く農民(農民工)と市民との格差に焦点が当てられている。最後の第5 章では、この都市、農村の経済格差を助長する歪んだ学歴競争によって壊れて行く子どもの心を取り上げている。

 1950 年の朝鮮戦争の勃発以降、中国はソ連式の重工業優先政策を採用し、重工業を支える農業体制を作った。即ち政府が農産物を買い付け、都市に安定供給する食料統制制度である。そこで農業労働力を確保するために、1958 年に「戸籍登録条例」を交付し、全公民を農村戸籍(農業戸籍)と都市戸籍(非農業戸籍)に登録させ、農村から都市への人口流入を抑制し、両者の分断統治を始めた。まさに江戸時代の身分制度の中国版である。しかし農業生産には限度がある。無謀な生産目標と自然災害によって農村は疲弊した。そこで1980 年代に入って、人民公社による集団農業体制に代わり、各家庭が農業生産を請け負う「家庭生産請負制」が全国の農村に広まり、食糧生産は大きな飛躍を遂げ回復した。また社会主義制度の下で市場経済メカニズムを導入する改革開放政策が行われ、人口移動の規制が大幅に緩和され、大量の農村人口が都市に流入した。都市に移住してきた出稼ぎ農民は「農民工」とよばれ、戸籍を出身地の農村に残したまま「暫定居住証」を取得して都市部で生活した。しかし都市市民としての基本的な社会サービスは受けられず、「2 級市民」として処遇されて差別が拡大し、多くがワーキングプアとなっている。同時に土地制度改革も行われ、国の所有権の下に農民に使用権が設定された。その結果として、弱肉強食の競争による「土地の私有化」が農村でも実質的に進行し、失地農民も出てきている。しかも政権交代の無い社会主義の計画経済で、「格差を生じさせない」理想を活かす「公平なルール」が行政に反映していない。農民たちは国を信じず、隣人を信じず、未来を信じず、信じられるのは目先の金銭だけという拝金主義がはびこり、社会主義市場経済発展の盲点となっている。

 2009 年末のNHK 総合テレビの政治番組では、今や中国は「低所得国」を脱し、米国国債の保有額では日本と並ぶ経済大国となり、米国に対する発言力が一段と増して来たとのことである。20 世紀前半に中国本土を侵略した負い目を感じる日本人として、自力更生の素晴らしい経済発展を大変喜ばしく思っていた。しかしこのような公的統計資料から予測される中国社会発展の未来像と本書のフィールドワークから見た具体像との間には、大きな開きがある。この「貧者を喰らう」中国の社会主義市場経済の厳しい現実は、「対岸の火事」としてではなく、「隣国からの警告」として受け止めたい。本誌22 巻サロン談義「資本主義の行方」も「正しく恐れる」眼を持った「こころの時代」で結ばれている。

山岸秀夫(編集委員)