2006.12.7
 
Editorial (環境と健康Vol.19 No. 4より)


本誌と「いのちの科学プロジェクト」


山岸 秀夫

 

 

 岩波書店が戦前から通して出版しているものに、文庫、全書、新書がある。それぞれ、文庫は「知識と美とを特権階級の独占より奪い返す」ために「文芸・哲学・社会科学・自然科学等の種類を問わず、万人の必読すべき新に古典的価値ある書の廉価な出版」を、全書は「帝国大学講義の公開」を、新書は「現代人の現代的(世界的)教養の普及」を目指して成功してきた。

 翻って、本誌「環境と健康」は来年創刊20周年を迎える定期刊行雑誌ではあるが、どのような読者を意識して、どのような意図で出版されてきたのかを考えてみたい。創刊以来その出版目的はほぼ変わらず、第9巻(1996年)より一般よりの投稿規程も整備され、「環境と健康に関係する諸問題を学術的な基礎に基づきながらできるだけ一般の方々に理解しやすい形で提供し、また誌上での自由な討論を踏まえて皆で問題を掘り下げたい」との願いが込められている。当初は、停年退官後の名誉教授の智慧のリサイクルの場としてのイメリタスクラブから発信される、多様な個人の活動の原稿が掲載され、定期購読会員を募集して配布されていた。その後、1999年1月に(財)体質研究会の研究プロジェクトとして、「要素非還元主義に基づく健康効果指標の研究(略称:健康効果指標)」が発足し、2001年1月(14巻)からは新たに(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団も同プロジェクトに共催者として加わり、本誌も両財団、健康財団グループの発行する機関誌となった。本誌12巻から18巻4号まで、その月例会の講演記録が全100編の論文として本誌に掲載された。いずれも、大学と社会の壁をなくして、例会講演を全て一般公開として、平易に大学での研究を社会に発信する場とした。いわば岩波全書の「公開講義」と岩波新書の「現代的教養」の中間の層を対象としたものであった。フォーラムや特別記念講演会は別として、各例会には40〜70名の聴衆を集めた。毎回の参加者はテーマ毎に変わり、専門性の高いテーマ程人気があったが、その反面参加者の多くは専門家で占められた。したがって一般参加者の評判は測りかねるが、おそらく難解な講演であったと思われる。それでも20〜30名の一般の常連参加者ができた。多くは現役の大学、研究機関の研究者に講演を依頼したので、現場の研究活動の妨げになるのを避けて、講演は全て録音して、テープから再生した原稿から、事務局で理解できる範囲の専門用語で、一般の読者に理解できるように初校を作成した。初校に図表の追加と校正を著者にお願いして、印刷に付された。したがって出版された本誌がどのように役立てられているかについては一切不問であったが、大変気になるところであった。しかしその間、会員募集キャンペーンの結果、2004年度(17巻)に大幅な会員数の増加があった。18巻からはNPO法人「さきがけ技術振興会」も本誌に仲間入りして、記事も豊富になった。

 一方、会員制の限界を破ろうとして、例会講演の内容を社会に直接届けるために、100編の講演記録中から特色のある横書きの論文を選んで親しみ易い縦書きに組換え、編者の解説をつけて、「シリーズ21世紀の健康と医生物学」全5巻を昭和堂より発行したが、発行部数はいずれも1,000部に及ばなかった。

 他方、年に一度開催した公開の「京都健康フォーラム」には100〜200名の聴衆が集まり、講演者には直接執筆をお願いして3冊のシリーズを昭和堂より発行した。その内容は、「シリーズ21世紀の健康と医生物学」よりも専門性が高かったにも拘わらず、むしろ発行部数では1,000部を上回るものがあった。

 その上、「健康効果指標」プロジェクトでは、名誉教授は自ら実験室での研究はできないので、若い研究者を対象に本プロジェクトの趣旨に沿った公募研究10件、計画研究8件の研究助成を行った。

 「健康効果指標」を引き継いだ「いのちの科学」プロジェクトでは、デカルトの「心身2元論」に基づいて自然科学として発展した医学から取り残されたこころの問題を考えるために、岩波文庫の「文理混在」でなく「文理融合」を目指した。そのため当初は非公開の例会研究会から出発し、公開講演会として「いのちの科学フォーラム」を始めたが、事務局での初校作成に限界を感じたので、その講演に基づく原稿作成を直接講演者に依頼することになった。当然のことながら、現役の研究に近い人ほど、その講演原稿は研究論文調に近かったが、事務局には手直しの実力はない。本誌への掲載は新プロジェクト例会シリーズが18巻3号から、「いのちの科学フォーラム」の記事は特集として19巻2号から始まったが、さらに大変革が起こり、19巻から医学書を扱う一般書店で市販できる体制を取った。現在本誌は発行部数が常時1,000部を超えるまでに成長している。本誌は市販収入に依存しているわけではないが、その売上はどの程度一般社会に受け入れられているかのバロメーターにはなろう。これまで本誌は、EditorialとBooks欄のみを、「百万遍ネット」(http://www.taishitsu.or.jp/)に公開してきたが、今後は特集記事以外をネット上に全面公開すればそのアクセス数もバロメーターになる。しかしイメリタスクラブでの批判は厳しい。個々の原稿は大変論理的で良くできているが、いずれも重たくて、読み通すのに大変疲れるとのことである。今後大論文は連載の形式に変えるなど工夫も可能だが、質的には新聞科学記事の啓蒙レベルにまで落したくはない。望むべくは、個々の著者がフォーラムや例会で話した気楽な雰囲気を持続して、聴衆に訴えたかった本質を原稿に反映されることである。

 そこで、これまでの研究助成事業に代る、もう一つの試みは、現役の著者に、バザールのある街の広場(アゴラ)で市民に囲まれた気分になってもらって、自分の考えのあるところを編集子に討論形式で自由に語ってもらって、同席するサイエンスライターにそのインタビュー内容を文書化してもらうことである。この試みは「いのちの科学を語る」叢書として具体化しつつある。そうは言っても叢書として出版する以上、5集程度くらいを単位としてそれぞれに物語性を持たせたいと考えた。そこで最初は、岩波新書と新聞科学記事の中間を狙って、日常性となった青少年凶悪犯罪と高齢社会常習の慢性痛から始めて、叢書に親密性を与えてみた。出版は、仏教や暮らし・趣味関連書で定評のある、大阪の東方出版(株)にお願いした。その結果は、第1集として、山中康裕著「子どもの心と自然」(既刊)、第2集に、熊沢孝朗著「いたみを知る」(近刊)として結実したが、いずれも「自然のいのち」や「いたみを知らなかった自然」への復帰を目指したリハビリテイションを訴えている。そこで第3集としては、地球上の既知の生物群150万種のうちの半数を占める昆虫類の「いのち」に注目し、その植物との「いのちのネットワーク」を取り上げ、高林純示著「(仮)虫と植物の不思議なネットワーク」のインタビュー原稿ができ上がった。脊椎動物の免疫系は遺伝子断片の組み合わせで多様性をえているが、虫と植物の間ではわずか数10の拡散物質の量的組み合わせ(さじ加減)によって多様な不思議なネットワークを構成している。これまで第1集についての周囲の反響はほぼ好評である。ライターに「分かりやすい文章の書き方の極意」を尋ねたところ、それは文章師(ライター)としての一種の企業秘密とのことであった。本号から各集の発行毎にBooks談義として、立場の異なる読者の反響を掲載する。「いのちの科学」プロジェクトの関心はなんといっても「人のいのち」である。そこで、第4集として、西田利貞著「(仮)ヒトの最後の共通祖先を復元する:チンパンジーの社会」、第5集として、中井吉英著「(仮)ヒト、文明を知った霊長類‐心療内科医の目」のインタビューを行った。これまでの全5集で、心身2元論でない「いのち」の見方として、文理融合の姿勢を読み取っていただけるものと期待している。

 引き続く6集以降では、いよいよ「いのち」の源泉である心臓と「いのち」の証しである脳の他に「いのち」の悦びである運動器を取り上げた後、引き続き哲学者、文学者、数学者にもご登場願って、「こころとからだ」について主として「文」の方々の人生観から「いのち」の御披露を期待している。この他にも、取り上げるべき話題としては、「癌治療の諸問題」、「食品と健康」、「臨床医学と宗教」、「感染症と免疫」、「老化の科学」など多々存在する。今後の「いのちの科学を語る叢書編集委員会」での御議論を期待している。

 他方、「京都健康フォーラム」は、そのまま「いのちの科学」プロジェクトに引き継がれたが、その成果は、京都の地域性と歴史と文化を活かして、五感バランスの回復を目指す「五感シリーズ」全五巻として、長野の地方出版社、オフィスエムより出版することになり、その第1集「(仮)香り・アロマでこころとからだを恢復」が近刊の予定である。本誌とは一味違ったソフトな味わいに期待して頂きたい。