2006.6.12
 
Editorial (環境と健康Vol.19 No. 2より)


「天」は先に考え「人」は後から考える


山岸 秀夫

 

 

 宇宙の起源はともかく、少なくとも現在こうして人類が存在することについては、私の中では「パチンコの当たり侠」に例えられると思います。「進化パチンコ侠論」といっても良いでしょう。このパチンコ台は今のような電動式ではありません。弾かれた侠が上から落ちてきて何回も釘に頭をぶっつけながら落ちていくのを目で追える手打ち式で、終戦後の薄暗い夜店の片隅に置かれていたものを想定して下さい。しかも打ち手はずぶの素人で、お八つの小遣いを節約して、心に念じて侠を弾く子どもです。釘師やそれを見抜くプロの活躍するギャンブルのパチンコ台は想定外です。そのパチンコ台では、ほとんどの侠は奈落に落ちてしまい、ほんのわずかの侠だけ当たりの穴に入り、ゴルフ用語で言えばホールインです。ホールインした侠に何故(Why)入ったのかと訊ねることが出来たとしても、分からないと答えるでしょう。ただどのようにして(How)来たのか唖は、いくつかの証拠をたどりながら説明するかもしれません。しかし奈落の底に落ちた侠の情報は一切知らないでしょう。人類はいわば極めて低い確率でホールインした侠の一つです。他にも沢山のホールインした穴があり、それぞれが多様な地球上の生物種に対応します。目の前の視野に収まるたった一台のパチンコ台に、生命のほぼ無限の展開を例えるのに異論があるかもしれませんが、単一生命を起源として40億年の時間をかけて分岐した系統樹を想定するとき、単純に同一地点から出発して多様な経路でほぼ一定速度で落下する幻のパチンコ侠に愛着を感じます。このパチンコ侠は小説の主人公と同じく全くのフィクションで、無数の釘にはじかれて水平線のかなたに消えていく光景を思い浮かべてください。現実に見られるパチンコ台の中には存在しないものです。

 私の著書「生命と遺伝子」(裳華房、2003)のエピローグ(242ページ)に、「天は先に考え、ヒトは後から考える」と記しました。全能の神(天)を信ずる人にしてみれば、ホールインした侠は最初の釘に一定の角度で当たって右にそれ、次に一定の角度で次の釘に当たって左にそれ、‐‐‐という具合に予め「天」の意思によって予定されたプログラムがあって、ホールインしたのだと考えるでしょう。しかしホールインした侠から見れば、辛うじて乏しい証拠を探して足跡をたどってみることしかできません。現在のパチンコ愛好者には馬鹿にされそうですが、素人の子どもにとってはホールインする確率はきわめて低く、「運を天に任せる」しかありません。しかし「天」といえどももう一度同じプログラムで、水平線の先まで侠を走らせることができるのかどうか怪しいものだと思います。

 あえて我々はどこから来たのか、Whyに答えるには宗教しかありません。科学は、Howでしか説明できません。この問題は、西欧人と我々日本人が自然を見る見方の違いとして、本誌の前号Books107ページで取り上げています(川崎謙:神と自然の科学史、講談社、2005)。しかし「天」でさえ再現不可能なくらい低い確率で、こうして現在自分が存在できる、「有難さ(ほぼ有り得ないような確率事象への感謝)」や「有り難う」という言葉の実感は全人類が共有できるものだと思います。そこに地球規模での連帯感なり人類愛が芽生える根拠があります。そこには宗派間の争いで殺人も辞さない既存宗教の出番は全くありません。

 私の専門とした免疫学の話をしますと、免疫系は自他を区腹する全能のシステムだといえます。全能のシステムといえば、一箱には神(天)が想定されます。しかし免疫系の全能の手品は、ランダム(出鱈目)にすべての組み合わせ(1兆からそのほぼ100万倍の可能性)を用意することです。その中から自己を認識する危険なものや役立たずの無能者を排除すれば、残りは全部他者(異物)を認識する可能性のある宝物なのです。しかし宝物といえども、不幸にして異物に出会わなければ選択されず、ただのゴミ同然です。特定のウィルスに対する抗体といえども考えてみれば極めて「有難い」存在なのです。感嘆されるほど精巧な免疫系は、全く無目的のランダムと確率的な選択の所産です。

 絶妙な脳神経系もその例外ではありません。猿人から袂を分かったヒトの先祖がまず獲得したのは言葉でした。大野乾著「未完先祖物語‐遺伝子と人類誕生の謎」(羊土社、2000)によると、猿人(アウストラピテクス)、原人(ピテカントロプス)に無く、旧人(ネアンデルタール)、新人(ホモサピエンス)にだけ存在する変異として、脳から舌に直結する運動神経が頭蓋骨を帳過する孔の大きさに3倍近い差異のあることが見つかりました。このことは舌により多くの運動神経が分布して、舌が良く回りだし、言葉が生まれたことを示唆します。人間だけの新しい機能としての声(話し言葉)の由来については、京都大学名誉教授(形成外科学)の一色信彦さんが「声の不思議:見えるものと見えないもの」と題して本号172ページに解説されています。また本号Books221ページで「人類進化もパチンコ式であった」ことが紹介されています(三井誠:人類進化の700万年、講談社、2005)。合わせてご覧ください。このように言葉での意思伝達が可能になると、個人情報から集団の智慧が生まれ、先代の集団の知識が次世代へと伝承されます。言葉が文字化されると、この伝承は更に確実となり、代を経るごとに飛躍的に加速し増幅され、文字文化が知的財産(ミーム)として形成されます。しかし今や情報は活字ではなく電子媒体によって、実時間(リアルタイム)で網目状に世界に伝わり、情報文化を形成し、永久に保存され、人々に共有されることになりました。

 人類は農業や工業を始めて、その生産物を個人所有できるようになってから、貧富の差ができてきました。富の分配を巡って民族紛争や戦争が起こりました。狩猟経済は貧しいですが、生産物を個人が長期保有できなかったので、その場で獲物を互いに分かち合い、貧富の差の少ない社会だったようです。しかしかっての狩猟経済社会のアフリカも、現在は農工業の経済に取り込まれて、部族紛争が発生し極貧問題にあえいでいます。ところが現在発展しつつあるIT革命(知の社会)では、狩猟経済同様、知を個人が独占することはできません(S.ボールズ:平等問題の運命;自然史的考察、河上肇記念講演会抄録、2006・3・29)。その成旺は人類共有の知的財産として受け継がれます。意図的に操作され誤った情報が、世界共帳の知的財産としての心の良識(理性)によって淘汰されるような社会が実現できれば、必ず相互理解と共存共栄の道が開かれる筈です。心の良識は生命愛であり、「善への欲望」更に「無限なるものへの欲望」(長谷正當:欲望の哲学、法蔵館、2003;本号Books、226ページ)と言い換えても良いのです。そこでは世界観として、「天」の立場をとるか「人」の立場をとるかは全く問題になりません。「死んだ自然(岩石、山岳などの物質や気象、地震などの物象)」や「遺伝子遺産(ゲノムとしての動植物や人間)」を見るとき、誰でも知的財産としての心が、山川草木に、自らもその一員としての「生きた自然」を感じ、無裏の感動と希望が湧いてくるものと思います。

 両健康財団では「いのちの科学」プロジェクトとして、「いのちの科学を語る」シリーズを企画しました。その第1集は、京都大学名誉教授で臨床心理学者の山中康裕さんにインタビューし、「子どもの心と自然」と題して本号とほぼ同時期(2006年7月)に東方出版より発行されます。水は化学式ではH2Oで表される液体ですが、固相、液相、気相の3相に相転移して、雪や氷、雨や霧、雲や霞み、あるいは湖水と海水、血と涙として、天・地・人の三才に現れ、「生きた自然」を循環しています。その「いのちを育む水の大循環の道筋、それが川なのです」。「いのち」を育てた自然の無限の大循環に子どもの心が触れ合うところから始めて、「子どもの瞳に輝きを取り戻したい」との願いが込められています。ここでは、「天」か「人」かの立場に関係なく、「生きた自然の中に」いのちが「ただ存在すること」の大切さを、現在危機的状態に曝されている子どもの心に訴えています。全ての人に「生きた自然」の里山に流れる川の保存と復活を問いかけています。

 生老病死はいずれも逃れられない人生の一大事です。ここでは「生死」の問題に対する一自然科学者としての見解を「パチンコ侠」に託して述べました。私としては「生死」の場に直接立ち会う臨床医や僧侶、牧師の見解もぜひお聞かせ頂きたいと思っています。「老」の問題に対しては、本誌前号で特集が組まれました。「病」の3大生体アラームとしては「疼痛」「疲労」「発熱」が上げられます。「疼痛」に関しては、京都健康フォーラム2003で取り上げられましたし、「いのちの科学を語る」第2集では「いたみを知る」(愛知医科大学教授 熊澤孝朗)と題して、本年秋に出版の予定です。本号の特集は「疲労」を取り上げ、第1回いのちの科学フォーラム「疲労の科学とその克服」(代表世話人 財団法人体質研究会理事長 鳥塚莞爾)の各演者にご執筆をお願いして実現したものです。関係者各唖に御礼申し上げます。