1999.9.1
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1. 老化研究の目標 | ||
今から二十五年くらい前(1970年代)に、私が老化の研究をしようと呼びかけた時、二つの反対意見に出くわした。一つは老化のようなつかみどころのないものはまともな科学者のやることではない。それは泥沼だ。というものであった。もう一つは、そんな研究をして老人ばかりがあふれる社会を作ってどうするのか。というものである。当時40歳代の後半であった著者もこれらの問題について何の成果をおさめ得ないまま80歳近くになってしまったが、世間は高齢社会が現実になり、老化研究がこの状況に何らかの貢献をすることが求められるようになった。 私達は始め自分達の研究を、人類が活動的な長寿を楽しむことを目標に老化防護と名付けたが、その後この方面の研究を推進する気運が亢まると共に、より積極的に老化制御と言われるようなった。中国では昔から不老不死が皇帝達の願いであったが、それを具体的にはどんな形として考えたのか、神仙思想位しか分からない。しかし西洋には老化制御は現実的にどんな形になるかを描いた例がある。その一例が有名ながリバー旅行記である。 誰もが知っているガリバー旅行記は、1726年にイギリスのジョナサン・スウィフトによって書かれたものであるが、ここに二つのケースが描かれている。一つは浮島からついで訪れたラグナダには、ストラルドブラグという不死人間が居る。そのおいさらばえても死ねないという不死の不幸を見ているそこの住民達は余り長寿を望まないということである。もう一つはガリバーの最後に訪れた理性いっぱいの馬スウィヌムの国の話である。ここでは彼ら住民の理性のある生活は健康によいので、不慮の障害さえ避けられれば、死ぬのはただ老衰によるだけである。彼らはたいてい70から75才まで生きる。まれには80才に達することがある。死ぬ二、三週間前になると次第に衰弱を自覚するらしいが、苦痛は全くない。そこで知人達に別れを告げて、遠いところへ旅立つように死んでいく。 最近では、高齢社会を迎えた日本でこそ、その活力を維持するために老化を防止し若さを保つことの重要性を再認識すべきで、老化研究が今日ほど重要性を増している時はない。(このホームページの7月の「私の主張」を参照のこと)
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