2001.2.1

 

 

2. 八十路からの健康談議 (2)

 

 

 私はかねてから健やかの長寿を目指して研究してきましたし、自分でもそのように努めてきたつもりです。それがまたこのようなホームページを開いている理由でもあるわけです。ところが問題は世間で騒がれている高齢社会の問題です。最近ではそれに少子化ということまで加わって少子高齢化問題としてそれにどう対処すべきか大きな政策的な課題であるということになっています。私は高齢化に対しては、日本人は若返っているのに何時までも同じ65歳を基準に高齢者としているところに問題があるので、この高齢者の基準を時代に合わせて70歳、73歳とずらせていけば、やたらに高齢者の割合が増えるわけではない、と主張してきました。(「ニッポンを若返らせよう」1999年7月)勿論それには賛成の意見の方もあり、その方々の意見もご紹介してきました。ところが最近それを上回る元気の良い意見を新聞紙上で読み、大いに喜んでそれをコピーして仲間に配ったような次第です。それは以下にご紹介する毎日新聞1月9日の「記者の目」(菊池哲郎論説副委員長)“少子高齢化はけっこうなこと”です。大雑把に筋を追うと次のようになります。

 “少子高齢化が「問題」として扱われている。おかしい。間違っている。”という書き出しで始まり、豊かになったからこその少子化ではないか、みんなが一年経てば一つ年を取る、それが元気であればこんな結構なことはないではないか。ようやく人口密度の高さが解消に向かう方向が見え出したら、今度は人口が減るのは問題だと言う。日本の官僚にかかると何がどうなっても幸せはなく、問題になる。”

 そこでわれわれ高齢者のことですが、先ず安上がりの年寄りになることを薦めています。これで若い世代にやたらな負担が掛かると言う問題は解決します。もう一つは年相応に出来ることをして社会のために働けば人手不足を愁うこともないと言うことです。

 これには諸手を挙げて賛成します。この高齢者の生き方は決して無理なものではなく、私など自然にそのようになっています。でも世の中必ずしもそうばかりはいかないようで、老人にもいろいろと困った癖があるようです。身近なところでは角が立つといけませんので、マルコム・カウリーの「八十路から眺めれば」からいくつか逸話を拾ってみましょう。

 先ず強欲の例。ラングリ・コリアは元コンサートピアニストで、70歳の兄と二人で五番街の一軒家に住んでいた。1947年3月21日、匿名の人物が警察に電話をかけてコリア家に死体があると通報した。警察は玄関のドアーを破ったが物が一杯で入れず、ようやく地下室から家に入り二人の死体を収容した。其の時家の中にあったがらくたは120トンにのぼり、14台のグランドピアノまであった。

 老人たちの虚栄。これは割合分かりやすい。将来に期待することが少なくなった老人たちは、名立たる美人、運動選手、軍人、学者、等々であった自分を人に認めてもらいたがる。認められたいという気持ちは、しばしば無邪気な自慢話となって会話の中に現れる。この例はもうよいでしょう。いずれにしても、安上がりの老人と悟れる人ばかりならよいのですが。

 兎に角、少子高齢化結構ですという世の中にみんなでしたいものです。