2001.10.1

 

 

10.「元気な高齢者」と「弱い高齢者」

 


 これはある高齢者ケアについての本*の“まえがき”の一節です。

 老いに伴って生ずる種々の生活機能障害は、若い人の価値観でみれば絶望的かも知れない。痴呆や寝たきりになってまで生きたくないと思う人は多い。しかし、それなら。現実に痴呆や寝たきりになってしまった人たちは不幸のどん底にいるはずである。ところが、実際に生活機能障害を持った高齢者の表情は意外に明るい。なぜであろうか。

 それは、老いを受容し、新しい自分に生まれ変わり、前向きに生きているからである。(中略)

 にもかかわらず、このような「弱い高齢者」の姿は、有識者の間で誤解と偏見を持って語られることが多い。その理由の一つは、世の中に向かって声高に発言できる高齢者は、元気な人たちに限られているからである。(以下略)


 この本ではこの弱い高齢者に日々接している医師として、このような弱い高齢者に、その人の気持になって、そのためには社員が社長に接するようなつもりで、接し介護をするべきである、と説いています。私はそのことについては大いに学ぶところがあると評価しています。しかし、私は著者の接していない大部分の元気な高齢者のことに十分に配慮がいってないのではないかと気になるのです。“まえがき”の後の方に次ぎのような文章があります。

 多くの国民は元気な高齢者の価値観があたかも高齢者全体の価値観であるかのような錯覚に陥っている。そして元気な高齢者の価値観は、基本的に非高齢者の価値観と同一であるので、ますます、元気な高齢者の論理が幅を利かせることになってします。(以下略)

 このあと、「人生に望みもないし、持とうとも思わず、肉体だけが生きている高齢者」というあるオピニオンリーダーとして有名な元気な高齢者の弱い高齢者についての言葉が引用されています。確かにこの言葉には大いに問題があります。しかし、これだけで元気な高齢者を代表するのもまた大いに問題であると言うのが私の今日の問題提起なのです。

 私自身は見かけ上は「元気な高齢者」の1人と見なされるでしょう。でもそれは決して非高齢者と同じではありません。勿論時間的に先がつまっている点は、前途洋々たる若い人とは違います。でも実際はそれだけでなく、今までもこの欄で折に触れて述べてきましたように時間と共に一つ一つ順番に社会との窓が閉じられていくのです。決して「元気な高齢者」と「弱い高齢者」とに二分されるものではなく、多くの高齢者がその中間にあるのだと思います。従ってその価値観も非高齢者と同じではありません。個人差はあるものの年とともにいろんな機能が低下するのは避けられません。またそれを無視することは却って突然の障害をもたらすおそれがあります。若い人と同じように生きられるスーパー老人などを目指していません。見掛け上元気そうに見えてもそれが続くのは精々半日で、朝から会合があると、昼からはうつらうつらとして明快な考察などとても出来ません。勿論耳が遠くて人の言う事はよく聞き取れません。眼もかすんで物を読むのも大変です。このような中で、段々と狭められていく社会との窓を通して、それなりのささやかな生きがいを求めているのです。

 活力ある高齢社会を目指すには、この見かけ上の「元気な高齢者」を正しく理解して、そのささやかな生きがいを十分に発揮できるように皆が理解し、そのように努力をしていただきたいのです。


*横内正利著 「顧客」としての高齢者ケア
 NHK Books 920