2007.2.1 |
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菅 原 努 |
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45. 反骨の人生 | ||||
2月には私も86歳になります。今時86歳は決して特別長寿とは言えませんが、大動脈の解離を起したり、大動脈瘤を抱えている私にはぼつぼつ限度かなと言う気がします。そこへ昨年末たまたま食事を共にした知人から随想集がメイルで送られてきました。そのなかに夢で恩師にあったとして大学時代の教授や助教授の思い出と教えが書かれていました。そこで私も一度過ぎし昔のことをたどってみたいと思います。 彼の場合は、夢に出てきた方々はみな有名な学者で、分野の違う私もお名前を知っている優れたお方です。彼はそれらの方々から受けたいろいろの教えを夢の中で思い出し、懐かしく感謝したというのです。私はこれを読んで、自分は全く反対で何度も恩師のところから飛び出した反骨人間だったと反省したのです。喧嘩は弱く、勝負事は苦手な私は、正面からぶつからず、そろっと身を引いたと言えば穏やかですが、反対に見れば飛び出してしまったというところです。 最初の反骨は大學を卒業するときでした。戦争の最中で某教授から特別研究生として残るようにとの推薦を受けました。残らなければ軍医になって戦場にいくことになります。でもその教授には学生時代に信頼を裏切られた思い出があった私は、深くも考えずに「私は軍医になります」と面接を受けた教授にお断りをしたのです。後で教授会で「今の若者は違う、進んで御国のために軍隊へ行くというのが居る」と話題になったとか。でも私の気持ちはそんな高尚なものではなく、単に指定された教授のところには残りたくなかっただけなのです。 二度目は反発というよりは単なる飛び出しと言うべきでしょうが、軍隊から復員して京大病院へ無給副手というかちで戻ったのですが、医局には先輩の医師の方々が次々と復員してきて病院は患者より医師で溢れてしまったのです。主治医として1、2名の患者を受け持つだけで、勉強しようと図書室に行っても何年も前の古い雑誌しかありません。幸いうまくパートの診療所医師の仕事が出来るようになったので、医局を飛び出してもう一度阪大理学部の大学生に戻りました。ただ残念ながら3年経って卒業しても不景気で新しい仕事はなく、また元の医局を頼りに病院に舞い戻らざるをえませんでした。そうして赴任したのが三重県立医科大学塩浜病院でした。 三度目はそれから5年余経った34歳のときです。病院は県立三重大学付属となり私は内科の助教授になっていましたが、当時はそこには学位審査権がなく、未だ京都大学の支配下にあり、京大の某教授のご意見のもとに研究テーマを決めざるを得ないという状況でした。私はもっと自由な研究環境を求めて思い切って医者を止め、新しく放射線遺伝学に挑戦することにして国立遺伝学研究所に移ったのです。勿論その他に健康上の理由などもありましたが、科学者という立場からは自由な研究環境こそが私の求めたものだったのです。丁度放射線の遺伝的影響が社会で問題になったときで、何時の間にか私はその専門家ということにされてしまいました。 その後放射線医学総合研究所を経て、母校の京大に40歳のときに帰ってきました。教授会では、まだ沢山の学生時代に習った先生方が居られるのに驚いたのです。55歳のときに医学部長をやらされ、学生と所謂団交をした最後の学部長になりました。それが終わると今度は思いがけず国立病院の院長に任命されました。そして最後の反発が起こるのです。 それは公務員を離れるときです。京大の定年は63歳ですが、国立病院のそれは65歳です。常識的には病院長などという自分にはふさわしくない身分でもせめて定年が延びるなら、というところでしょうが、また私の悪い癖が出て、私には病院長などという管理職はふさわしくない、京大の仲間が辞める63歳で私も退職してもとの一研究者に戻ろうと辞表を提出しました。丁度後任にふさわしい方が推薦できたのも救いでした。こうして今につながる第二の人生を始めたのです。 それも永年務めた公務員としての研究者に対する反発から、あくまで民間に徹することにし、先輩の作られた財団を研究組織として立ち直させることに努力を傾注してきました。そこでの研究課題も公では出来ないまたは難しいことを民間の立場でということに重点を置いています。最近では特に社会へ開かれた科学を目指しています。多くの名誉教授(かつては公務員であった科学者)がこの考えに共鳴して協力していただいています。 さてそれでは私には恩師は居ないのかということですが、決してそうではありません。こんなへそまがりの私に新しい職場を提供してくださった先輩方、次々と新しい職場での仲間たち、沢山の図書や雑誌の論文の著者達、などがみな私の恩師です。それらの方々に教えられ助けられて今の道を歩んでこられたことをこころから感謝しています。
註:定年後は、事務所を持ったそれぞれの場所に応じて、河原町通信、百万遍通信、あとはこのホームページを使って「八十路の健康談義」からこの「八十路のつぶやき」へと近況をつづってきましたので、ここでは省略させていただきます。
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