2004.12.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  19. 安心と安全
 


 また小学一年生の子供が帰宅途中に連れ去られて殺される事件がありました。世界一安全で安心して暮らせるはずの日本ではなかったのでしょうか。どおしてこんなことになったのでしょうか。今日はこの安全な日本がどうなったという話は別にして(これについては参考までにこのホームページの読書コーナーの「安全神話崩壊のパラドックス」を参照のこと)、安心と安全との関係を論じてみたいと思います。

 社会一般では、安心と安全とは密接に結び付いて考えられているようです。一寸注意をして新聞や雑誌を見ていると、安心・安全で****と言った文章が至るところに出てきます。最近配布された私の住む京都府の「府民だより」には、今年の補正予算についての説明がありましたが、そこでも第一の項目は「安心・安全づくり」なのです。この意味は多分安心できるように安全をめざした施策をする、といったことでしょう。これは逆に言えば、十分に安全を目指した施策に予算をつけているので安心して生活してください、と言う事でしょう。これで皆さんは多分何の違和感も持たれないでしょう。しかし、実はここに大きな落とし穴があるのです。

 これは安全ですと聞くと、安心すると言うことですが、実はこの世の中に絶対安全なものはあり得ないということが、この話では忘れられているのです。私は放射線のリスクについて議論をしているなかで、社会心理学の専門家からこのことを教えられました。絶対安全とはリスクで言えば、ゼロリスクということです。人間生きていく以上どんなに注意をしても病気にしろ事故にしろ、将来に全く何も起こらないと言う保証はありません。すなわち、ゼロリスクはありえないのです。最近のように台風や地震が来ればいやでもそのことを実感されているのではないでしょうか。それを逆に言えば、人生不安は避けられない、むしろ将来に対して用心深く怖れを持つことが、かえって少しでも安全度を高めるのに役立つことになるのではないでしょうか。防災訓練というのが正にそれにあたるものです。

 うっかりと安心して気を許してしまうと、思いがけない不幸に会うかもしれない、ということを忘れてはなりません。京都府の立場では、行政としては住民に安心していただけるように、安全を目指した施策を計画しています、と言う事かも知れません。しかし、安全はそんなに行政にだけ任せておいてよいものでしょうか。どうもこの国では悪い事は何でも人のせい、お上のせいにしがちです。しかし、今度の小学生殺人事件をみても、人任せでだけではとても予防できないでしょう。安全な街は住民みんなが協力して、安心して気を許さずに、むしろ不安を持って、細かく配慮し行動することではじめて実現できるのではないでしょうか。そうでなくて至るところに監視カメラがそなえられ、出入り口には監視人が立ち、総ての事が背番号で監視される社会を望みますか。他人まかせで安心しようとするとこんなことにならないとも限りません。

 食の安全についても同様です。食品安全委員会は食品の安全確保のためにリスク分析手法を導入すると言っています。ここではゼロ・リスクはありえないという前提に立っています。ところがこれが新聞記事になると、「科学技術の粋を尽くし、陸で育つ海の魚。大地に根を張らず育つ野菜。安心・安全でしかもおいしく、安く、新鮮で便利に***。」となり、安心と安全とは一体になってしまっています。

 私は、この「安心・安全」という二つが結び付いた言葉を読むたびに、どうしてこの言葉の使い方の誤りを皆さんにお知らせできるかと悩んできました。なかなか意を尽くせませんが、皆さんにもう一度このことをよく考えて頂きたく拙文を書きました。

 

 

 
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