2010.12.2
 
Editorial (環境と健康Vol.23 No. 4より)


地方文化の先見性を記録に残す
−菅原 努 編集委員代表を追悼して−


山岸 秀夫

 

 

 例年は、9 月に入ってからの残暑も「暑さ寒さも彼岸まで」の諺を信じて我慢してきた。しかし本年は将に異常気象で、秋の彼岸になっても酷暑は一向に納まる気配が無く、9 月も末になってやっと秋の気配が漂い、通勤途上の川の堤の土手にも真っ赤な彼岸花が開き始めた。仲秋の神無月に入り、この酷暑を乗り切られた病身の菅原努先生の身を案じながらも、その不死身の回復を祈念していた。その矢先に突然「巨星墜つ」の悲報を受けた。1987 年に本誌を創刊されて以来20 有余年、編集委員代表として本誌を育てられ、ご逝去直前の本号の編集にも関与して頂いただけに、本誌に激震が走ったが、先生は「生涯現役」の見事な人生を全うされた。

 先生の夢は環境と健康に関する学術的記事を分かりやすく取り上げ、文理の知恵を動員して、その全体像を把握し記録に残す事であって、本誌は大学のアカデミズムと社会を繋ぐ媒体であった。編集のモットーとしては、中央の総合誌と対極的なローカル(京都の特色)と反骨(時代に迎合しない先見性)であった。その証左として、本誌 20 巻 1 号(2007 年春号)に先生が遺された提言「特集/本誌 20 周年の歩み、20 周年記念にあたって」を本文の枠内に再録することにより、本誌にかけられた先生の熱意とご功績を偲びたいと思う。

 先生が最後に関わられた本号特集「宇宙、心身、いのち」は、「重量がゼロに近くなる宇宙空間での身体は質量の無い心とどう関わるのか」との疑問に発して企画された「心と身体」を考える 3 つのサイエンスカフェの記録であり、将に要素に還元できない総合的な思考を要するものである。不幸にも本年 8 月 5 日に生じたチリの鉱山事故で 70 日間も地下空間に閉じ込められた人々の「心と身体」のケアの問題も今後の話題となるであろう。本号特集以外に「随想」欄でも人の心を繋ぐ言葉の多義性が取り上げられているし、「いのちの科学」欄では自然の支配者である人間の責任に関する哲学的考察がなされ、さらに生物多様性を考える「サロン談義 7」、人間の大量消費指向に警鐘を鳴らす「サロン談義 8」、地域環境資源の管理を論ずる「JCSD」欄でそれぞれ具体的な検証がなされている。長寿社会の問題も引き続き連載講座で取り上げられているが、「生涯現役」で長寿を全うされた先生の生き方から学ぶ所は多い。

 拙宅の南面の部屋の濡れ縁には、蔓性植物のグリーンカーテンをめぐらせているが、強い陽射しの下でも夕顔(ヒルガオ科)だけは手のひらを広げたような重厚な葉で木陰を作り、月の出とともに大輪の白い花が開いてやさしく昼の疲れを癒してくれる。清秋の毎夜一期一会の想いをこめて、今宵一夜限りの夕顔の花を眺めつつ、親しく慈父のようにご指導いただいた先生を偲び、その御遺志を本誌に引き継いで行きたいと思う。

 

本誌 20 周年記念にあたって 

 本誌もとうとう 20 巻を迎えることになりました。大きな組織であれば 20 年はそれほどの期間ではないかもしれませんが、独りで編集の責任を負っていると66 歳で始めた仕事が、今では 86 歳の仕事になるわけですから、だんだんと重荷になってきたのはご理解いただけるでしょう。でも幸い 12 号からは一部を山岸秀夫、ついで 19 号からは全面的に内海博司という二人の京大名誉教授が中心になってくれたので、最後に息を切らせずに続けることができました。

 本誌はもともと(財)体質研究会の研究報告書として発足したのですが、それだけでは新鮮味が足りないだろうと思って、身近な研究者にお願いして Bio-update とか、議論のありそうな話題を見つけてきて、故鈴木吉彦氏の尽力を得て「サロン談義」などと言ったものを加えたりしてきました。健康指標プロジェクトを始めるようになって、財団の活動はそれが中心になるのでそれは山岸氏にお任せし、私の力点は Editorial とトピックスに移るようになったのです。私はまた新しく(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団に移ることになり、いろんなプロジェクトをそれと共催で行なう事になり、本誌も共同のものになりました。これらの他に私が密かに自負している本誌の記事は、私が“これは”と思った話題を気づくままに拾い上げた Random Scope です。その後の 19 巻からの変りようについては、その 1 号のEditorial に「新しい装いのもとに」と題して書きました。これからは広くいろんな方に記事を書いていただくことにしたのですが、なかなか統一した形にはならず、今新しいあり方を模索中と言わざるをえません。

 さて、20 巻を迎えて、この機会に何か記念のまとめをしてはという企画が生まれました。本来ならば 20 巻の綜合目次とか索引とかを作るべきかも知れませんが、残念ながら本誌は財団にこそ記録として保存されていても、どこの図書館にも保存されているわけではありません。それでは折角の綜合目次も生かされないでしょう。いくつか代表的な記事を拾い上げて特別号を作るという考えもありましたが、その選択は初めから作ってきた私には出来ても、いまの編集委員にお願いするのは無理な事です。私も余り自分の好みでその様なものを作るのは気がすすみません。そんなことを議論している間に何時の間にか、私が漏らした一言、「常に先見性を目指してきた」が独り歩きをして特集−1「先見性を考える−本誌 20 周年の歩み」にすることに決まったようです。決まったようなどと他人事のような発言はけしからんと思われるでしょうが、耳の遠い私には、議論の一部しか理解できず、後になって議事録を見てはじめて“そうゆうことに決まったのか”と知るわけです。このことについては、あとの特集−1 に譲ることにして、そこに含まれない私の本誌によせていた希望についてふれておきたいと思います。

 それは記録を残すということです。そんな記録は何の役に立つのだ、結局最後は紙くずになるだけではないかと言われるかも知れません。しかし、人びとの記憶などあやしいものです。思い違いということもあります。矢張り個人なり組織としての財団なりが、その時々にどのようなことをしてきたかは、記録としてきっちりと残しておくべきだと思います。本誌は、その意味で財団の活動記録として作って来ました。最近ではその活動が社会への働きかけという面が強くなったので、記録の取り方が難しくなったのは事実です。でもこの面での本誌の役割も忘れてはならないと思います。私は本誌の他に、同じ頃に名誉教授の集まり“イメリタスクラブ”を設立して、その広報誌として「百万遍通信」というのを本誌と交代に隔月に発行してきました。それは次の会長にも引き継がれて最近 100 号を越えましたが、それのバックナンバーをひもとくと、いろいろの活動、亡くなった会員のことなど、懐かしく思い出します。私たちが居なくなった後に、昔京都にはこんな変わった組織があった、などと誰かが発掘してくれるかも知れません。最近明治時代の動きをいろんな記録を発掘して再現している研究報告を読むにつれても、記録の大切さを痛感する次第です。

 これからは、さらに科学者と社会との橋渡しを目指します。そして名誉教授を中心とする新しい編集陣が、文理の枠にとらわれない広い分野に活動の場を広げてくれることを期待しています。

2007 年 新春の京都洛北の寓居にて
菅原 努