Books (環境と健康Vol.21
No. 2より)
|
|
針山孝彦 著 生き物たちの情報戦略−生存をかけた静かなる戦い |
|
(株)化学同人 ¥ 1,800 +税 |
|
かって、本誌20 巻1 号(2007)「Books 談義2」にて、川出由己著「生物記号論」を取り上げ、評者は、<心の次元まで踏み込んだ本格的な文理融合の「生物学通論」である。>として評価した。しかし、記号論の解説から始まる哲学的考察は、医生物学者には難解で、その論証の具体例として、生物の世界が出てきた時にやっと安堵したことを思い出した。そこでは、<全ての個体(主体)について、個体を取りまく世界(環世界)の中で、社会(客体、環境)を作って“生かされている”三項関係の“いのち”>を引用した。 今回本書をBooks に取り上げたきっかけは、そのまえがきの<環世界の解明とその相互作用を知ることは、生物を理解するための重要課題です。>の中に「環世界」という共通のキーワードを見つけたからである。これを自ら極寒の南極や赤道直下のケニアの最高峰を、文明の力を借りながらも命がけで探検し、その極限世界の中でも、そのままの姿で生きている生き物の多様な“生き様”に感動した著者の結論と受け止めた。「Books 談義2」の川出由己氏の作品を、哲学の側からの記号論の論証としての生物学的事象への演繹とするならば、本書は生物学的事象(多様性)から発した記号論への収束(帰納)であるともいえよう。本書は昨年末、既に新聞紙上にサイエンスライターの書評として取り上げられ、優れた啓蒙書として好評を博したものであるが、あえて本誌に再紹介する理由はここにある。本書は多様な生き物の生き様を生物学として解説しながら紀行文風にまとめて、最後に自己の生命観を述べているので大変読みやすい。ただ一切図表を使わない分子生物学の解説は、一般社会人にはやや難解であろう。 零下35 度の南極の氷河の近くで、凍らずに生存する苔と昆虫(スプリングテールやトビムシ)やヒトには息苦しい低酸素の高山を軽快に飛ぶ蜂の観察からヒトの弱みを見せつけられる。またこのような極限世界の生物に限らず、熱帯ケニアの草原に展開する生々しい食物連鎖の世界、フィンランド湖畔での熱水温泉に棲む古細菌の光受容、さらにイタリア海岸のトビムシの体内時計やベニツチカメムシの帰巣戦略、アオハダトンボの成熟雄の翅の構造色、海岸の岩礁地帯に棲むフナムシの昼夜で変化する視覚世界など、生物界の種の情報戦略の多様性に驚かされる。生物学も自然科学であるので、仮説を立てて、その予測通りの行動(反応)が見られたときに、仮説が実証されたとされる。しかし著者は多くの生物を観察して、しばしば予測外の行動に接し、ここでその多様性の根源として、「環世界」という記号生物学の考え方をパラメーターとして導入している。すなわち、<動物主体(主体)とそれぞれの動物が持つ固有の感覚受容器とその情報処理システムという色眼鏡で作り上げた情報世界(環世界)と自然環境(客体)の三項構造>を考えている。今西錦司氏の「生物の世界」(1941、講談社)に述べられた環境論に限りなく近い。 このように考えると、ヒトはほぼ600 万年前チンパンジーとの共通祖先から発し、100 万年ほど前にヒトへの道を歩み出し、言葉を通じた情報を交わし、1 万年ほど前に文明という環世界を作り出しただけでなく、つい半世紀ほど前からバーチャルリアリティーという幻想の世界を、新に環世界に取り込んできた、世界中でもっとも危険な動物となったのではなかろうか。しかも今や、食物連鎖の頂点に立ち、文明という武器を携えて、全地球環境のみならず宇宙にも、深海にも生存できるようになった、この史上もっとも危険な動物(ヒトという単一種)の手に客体としての地球環境の将来が委ねられている。
山岸秀夫(編集委員)
|
|
|
|