2008.6.5
 
Editorial (環境と健康Vol.21 No. 2より)


教育を考える


菅原 努*

 

 

 一介の老基礎医学者にすぎない私が、今問題になっている教育を論じるなどというのは、全く気恥ずかしいことです。でも本誌の前号から、サロン談議に「教育改革に対する私見」という題で、元京都大学総長でその後もわが国の教育改革にかかわってこられた岡本道雄先生に登場していただいた責任上、私も何か論じなければならないと考えた次第です。

 でも正直に言って、大学教授には一般の教育を論じる資格などないと思っています。私が京都大学の教授に任命されて、新しく放射能基礎医学講座を担当することになったのは、国立遺伝学研究所、放射線総合医学研究所といった研究所に勤めた後だったものですから、大学で講義の時間を与えられても、どのような教育をしたらよいのか、誰も何も教えてくれません。仕方なくあれこれ試行錯誤で始めざるを得ませんでした。そのときには、大学教育にはそれなりの理念や方法論があるはずだと、不審に思いました。でもそうして始めた私の講義ノートを本にまとめて出版したものがよく読まれて、1966 年の初版から42 年後の今年、改訂11 版が出版されるのですから、私の大学教育もまんざら失敗ではなかったのかも知れません。最近は学生の理科離れが問題になっています。私も自分のホームページにそのことを紹介しました。その内容は次のようなものです。

 

子供たちの科学離れ

 発展途上国では子供たちが科学に大いに関心を持っているのに、先進国では逆に科学離れが進んでいる。これは最近行われたノールウエイのオスロー大学のCalmilla Schreiner とSvein Sjoberg による20 ケ国以上に関する国際共同研究の結果です。途上国では国の発展度と15 歳の子供の科学者希望との関連はほぼ完全に比例しています。ところが先進国では物理や化学の高等教育を目指す子供がこの何十年かにわたって減少し続けています。そのため例えば英国ではこの 6 年間で約80 の大学で科学の学部が閉鎖され、最近ようやく一部で名前を変えて再開されたという次第です。最近の調査では11 歳くらいの頃には物理や化学に興味を示すのですが、15 歳くらいになると科学の大切なことは分かるが自分の職業としては考えたくないというような傾向があるそうです。

 これに対して、教育をする側からいろいろと工夫がなされています。ある国ではカリキュラムをすっかり変えて、学生の興味を引きそうな話題、例えば化学工場をつくる最適な場所は?とか、化石燃料から原子力や自然エネルギーなどの他のエネルギー源に変更するべきかどうかなどから、科学の話題に引き込んでその必要性を考えさせる。これに対してそれは大学でやるべきことではなく、一杯飲みながらの話題だとの批判があります。

 もう一つはロンドンの自然博物館で、実物展示を大幅に拡大したのです。ここには今まででも年に百万人以上の入場者があり、今後の効果が期待されています。このような試みは世界各地で行われています。

 今までの先生にとっては生徒がどれだけ知識として覚えたか評価するのは易しいが、そうではなく、生徒に自然を探求するやり方を教えるべきだというのがその核心でしょうが、これは実になかなか難しい問題です。今は世の中が科学技術で便利になりすぎて、それを使いこなすのが楽しみになって、自分で新しいものを作っていく楽しみを知る機会がなくなってしまったのではないかというのが私自身の感想です。これは何も子供の教育だけでなく、大人の世界でもイノベーションが盛んに言われるのも同じことだと思います
環境と健康20(4)Editorial、イノベーション再訪、参照)。

 

 さてここらでもっと大きな立場での岡本道雄先生の論に戻りましょう。先生の論の出発点はかつての大学紛争です。先生が京大総長として紛争に当たられた頃に私は医学部長として、同じ嵐の中に巻き込まれていました。でも私にはとてもマルクーゼなどという思想的背景など考える余裕などありませんでした。でも私にとって不思議なのは、もしあの紛争がそれだけの哲学的背景を持っていたのなら、暴力的なことは否定されるにしても、何かその後の世界に希望を持たせるものを残してくれてもよかったのではないか。その後、科学技術はますます進歩し、世界は便利にはなったが、人のこころがなごみ、平和が楽しめるようになってきているとはとても思えません。それだからこそ教育だと岡本先生が言われるのでしょうが。そしてその基本は、「教育とは、初めはこのように人間の生き方を教えるものであった」。それを「いろいろと誤って、この人間教育の部を省略して専門に入るのが今の教育である」と指摘されています。この人間の生き方の基本として、人と人の共存、正に人間という言葉が示すものがあり、その「個人と個人、家族、村、町、都市、国家、世界、人類という人間実存の序列」を知ることの大切さを説かれています。

 でも私の見るところ今の世の中は反対の方向に向かっているようです。毎日仕事に出るのに電車に乗りますが、多くの若い人は乗ったとたんに携帯電話を出して何か連絡を始めるのです。これは見かけは人と人との結びつきのようで、私には逆に疎外感を感じるのです。携帯電話でメールを送って連絡をしているようで、実際には狭い自分の世界に閉じこもっているのではないかと思えるのです。そこで高校生の息子さんを持っている私の秘書にメールの効用について訊いてみました。女性の同級生が「貴方の携帯番号を他の女性に教えてよいか」と聞くので、「いいよ」と答えたら、早速メールが入ったそうです。でも翌日学校でその子に会ったときには、そのメールのことにはふれず、「お早う」以外のことを言ってならないのだそうです。「メールの世界と日常の世界とは厳密に区別するのが原則だ」とは驚きです。また最近私の娘にこんなことを聞きました。「今の若者は、におい消しの噴霧器を愛用している。自分を無臭にしたいのです」と。一体これは何を意味しているのでしょうか。ここにも人と人との関係への否定が感じられます。

 そこで、これからの岡本先生のお話の展開を期待して待っています。本号では「親孝行」が主題ですが、いきなり「根本的に考えるとは哲学することである」といった話しから始まりますから、何人かはここで辟易されるのではないかと心配します。でも先生のお話は昆布のように何度も何度も読んでいるうちに、段々とその言われるところが納得できるようになるようです。哲学という言葉にひるまずに読み進んで下さい。そこで先生の言われる「親孝行」の深い意味もはじめて理解できると思います。

 


 *(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長、
京都大学名誉教授(放射線基礎医学)