2007.12.7
 
Editorial (環境と健康Vol.20 No. 4より)


イノベーション再訪


菅原 努 *

 

 

 イノベーションという言葉は、普通技術革新と訳され私もそんな意味で、一昨年何人かの仲間の協力を得て作った NPO 法人「さきがけ技術振興会」の英文名にも Innovative Technology という言葉を使いました。しかし、実際にその技術の普及を図ろうとすると、他の技術との組み合わせだけでなく、制度的な制約が問題になってきました。最近の例では農水省が推進したアレルギー予防米の開発が、できたものが食品か薬品かで、厚生労働省から制度的に異論がでて、ついに計画を白紙に戻し、薬の開発として再検討することになったと報じられています。先ずこれを岩元睦夫の論説1)から紹介します。これは折角の革新的技術が既存の制度に阻まれて日の目を見られない例といえるでしょう。

 『社会問題となっているスギ花粉症の減感作治療を目的に、農林水産省が遺伝子組換え技術を利用して世界初の食べるワクチンとして開発を進めてきたスギ花粉症緩和米が、厚生労働省の意向により食品としての実用化を断念し、医薬品としての開発に方向を転換した旨の報道がなされた。ヒトの身体の機能に影響を及ぼすものは医薬品とする薬事法の規定に基づく食薬区分の問題は、いわゆる健康表示との関係で業界を巻き込んだ長年の懸案である。

 食品成分と体調調節機能の関係が明らかにされ、その成果である機能性食品(Functional Food)はわが国のオリジナリティーとして広く知られるようになった。一方で、ヒトゲノムの解明が進展するなかで Nutrigenomics といった新たな学問が生まれ、バイオマーカーによる食品機能成分の網羅的な解析が可能になった今日、欧米における食品機能研究が活発化している。特に EU においては、EU諸国の共同研究の成果を Codex 委員会を通じて国際標準化するべく戦略的な対応を行っている。

 わが国がこの分野で遅れを取らないためには、いわゆる食薬区分の問題の解決に向けて行政の縦割りを排除し戦略的な取り組みを行うことが重要である。』

 もともと、イノベーションを技術革新と思っていたのは、私の間違いで2)、坂村 健によれば3)、イノベーションは、プロダクト(製品)・イノベーション、プロセス(方式・運用)・イノベーション、ソーシャル(制度・構造)・イノベーションの 3 つに大別され、日本はプロダクトとプロセスの両イノベーションについては世界に冠たるものですが、最後のソーシャル・イノベーションの力が弱いということです。これは正に上に述べたアレルギー予防米を巡って顕在化した問題です。

 坂村氏は他にも面白い例を挙げています。それを彼は

『日本では技術がどんな新しい状況を生んでも、従来の制度を変えないでそのまま進みたいという力――制度がそれ自体自己目的化する“制度の慣性力”とでもいったものが非常に強いのです4)。』

といっています。具体的な例として、

『日本のバスの料金ボックスは、紙幣もコインも使えておつりも出て、磁気カードも IC カードも使えて高齢者割引もできるというような“世界最高性能”の料金ボックスになってしまいます。制度で解決すれば、単純なカードリーダー一つでいいものが5)

をあげています。

 調べてみると、わが国でも安倍首相(当時)の肝いりで高市早苗・イノベーション担当相(当時)の私的諮問機関として 2006 年 10 月にイノベーション 25 戦略会議というのが作られ 2007 年 5 月に最終報告書を提出し、それが閣議決定されていることがわかりました。

 これが、安倍首相(当時)がよくいっていたイノベーションの意味だったのです。開設の趣旨には次のように書かれています。

 『日本社会に新たな活力をもたらし成長に貢献するイノベーションの創造に向け、医薬、工学、情報工学などの分野ごとに、2025 年までを視野に入れた、長期の戦略指針「イノベーション 25」の策定のため、イノベーション担当相が学界、産業界などから高い見識を有する人々の参集を求め、「イノベーション 25 戦略会議」を開催する。』

 閣議決定の内容は、その詳細は長文であるので省略するとして、座長の黒川 清氏はそのまとめとして次の点を強調しています6)。それは政府の趣意書が技術革新に重点を置いているのに対して、これをもっと広く根本的にとらえていることです。

 『本報告書では、イノベーションが持続する日本の実現に向けて、技術革新、社会制度の刷新、人材の育成、国民意識改革などのイノベーションを示した。これらすべての分野がそれぞれ大きな挑戦であるが中でも困難なことは、イノベーションを起こす本質である、社会イノベーション、人材イノベーション、そして政策イノベーションである。(中略)

 イノベーションは結果として創造的破壊であるので、既存のレジームの中で成功してきた組織ほど、その導入に躊躇し、既存の仕組みに安住し、抵抗し、対応が遅れる。この対応の遅れはグローバル時代にあっては、国家、組織、個人あらゆるレベルの競争力を失わせることになりかねない。一人ひとりの意識の中にある見えないタテの壁、そして大学、企業、府省等々どこの組織にもあるタテの壁を取り払うこと、そして既存の状況に満足することなく、常に、柔軟に、積極的に革新を続けることが重要である。』

 またこれを受けて日本学術会議の金沢一郎会長もそのコメントで;

 『イノベーションとは、単に技術革新にとどまらず、新たな考え方によって社会に大きな創造的変革を起こすことです。』

と言っています7)

 私はこれを知って、大変心強く思いましたが、現実は初めに紹介したスギ花粉症緩和米の例にも見られるように、既存の壁は依然として立ちはだかっているようです。私たちが進めているがん治療におけるハイパーサーミア(温熱療法)も、どうやら根本は同じところにあることが見えてきました。大腸癌になった私の友人は、手術をした外科医の指示で、転移を抑えるべく化学療法を続けていました。同じことならそれにハイパーサーミアを併用しては、という私たちの意見は全く聞き入れられませんでした。少なくとも制がん剤の効果を高めることは期待できたと思うのですが。しかし、現実には化学療法を続けたにも関わらず転移はますます広がり、主治医はやっとハイパーサーミアを受けることを許可してくれました。私は何もハイパーサーミアがすべてと言っているのではありません。患者のためにあらゆる可能性を考えてみる、そのときには自分の専門の枠を外すくらいのことはするべきではないでしょうか。古い壁はなかなか破れそうにありません。でも上に紹介した広く捉えたイノベーションの考えを広めることで、新しい展開を期待したいと思います。

 イノベーションは何も技術だけのことではないのです。技術そのものの取り上げ方はもとより、学問の枠も、社会の仕組みもすべて革新することによって、初めて新しい希望の持てる世界が開けてくるのではないでしょうか。自分の反省も込めて皆さんにこのことを強く訴えたいと思います。

 

文 献

1)岩元睦夫:食品機能研究:気になる最近の話題から。ILSI(日本国際生命科学協会誌)No.90(2007)pp. 1-6.

2)広辞苑によれば:(1)刷新、新機軸、(2)生産技術の革新だけでなく、新商品の導入、新市場・新資源の開拓、新しい経営組織の実施などを含む概念。シュペンターが用いた。日本では技術革新という狭い意味で用いることが多い。

3)坂村 健著:ユビキタスとは何か 岩波新書(2007)p.158.

4)同上 p.164

5)同上 p.155

6)黒川 清:イノベーション 25 戦略会議最終とりまとめにあたって
  「イノベーション25 戦略会議」
  www.kantei.go.jp/jp/innovation/index.html

7)金沢一郎:日本学術会議会長のコメント
 www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/comment/070525.html

 


 *(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長、
京都大学名誉教授(放射線基礎医学)