2007.12.7
 
Books (環境と健康Vol.20 No. 4より)

 

末木文美士 著

他者/ 死者/ 私−哲学と宗教のレッスン


岩波書店 ¥2,800 +税
2007 年5 月29 日発行 ISBN978-4-00-023777-2

 

 

 かって、同著者の「日本宗教史」を本誌19 巻3 号Books でとりあげたが、仏教学者である著者自身の宗教感は読みとれなかった。しかし第 8 回いのちの科学フォーラム「医療・宗教・スピリチュアリティ“いのちを考えよう”」が本号の発行前に迫ってきたので、本書の題名に期待して手にとった。

 「他者は私の外からやってくるとは限らない。私自身が私にとって最大の他者だ。私の心の奥に何がうごめいているのか、そして何をしでかすのか、私自身にも分からない」で始まる。しかし最も根源的な他者とは何者か。死者こそ他者の中の他者ではないのか。にも拘わらず、死者に話し掛け、死者の言葉を聞く、身近な死者はもちろん、アウシュビッツの死者たちも、広島、長崎の死者たちも語りかけて止まない。これは単に生者の妄想に過ぎないのか」と自問する。

 ここで「時間は反復する」との田辺哲学の立場に立って、「死者」が私に対して「復活」するとの考えを紹介している。そして、生前に希っていた死者の思いと、死者に対する生者の愛との交互的な「実存協同」に生きる「無の立場」に徹底した世界が提起されている。仏陀学の解釈としては「生の哲学」から「死の哲学」への転向である。清沢満之(2001)の「宗教哲学骸骨」は哲学と宗教との緊張関係を述べていて、「無限が「ある」とは無限を「感じている」ことである。無限を感じつつ有限のからだが生きている」。今村仁司(2003)は、「浄土は現生で達成されるものであって、「有限な人類が理想的に実現できる正義共同体」を目指そうとする」。果たしてこのような「無限による抱摂」はこの現生で可能なのか?ジェームズ・フォード(2004)によると、「神によらないところで、神に代るものが記憶である」と言う。永井 晋(2007)は、「倫理は濃い人間関係に適用され、道徳は薄い人間関係、その根源としての人間性に基づく人間である」とする。更に、霊魂と身体の二元論で捉えきれない、存在と非存在との間の[妖怪]を認め、現象学を転回させている。そこでは、死者は宗教への導き手である。「至上の神とは万物を生み、同時に死滅させる「時」である。生と死、産出と滅亡、暴力と平和、善と悪、このような宗教の両義性はそのまま我々人間存在の、そして世界の両義性である」。

 先日、第21 回「いのちの科学」例会で、木村崇氏が「ロシア文学に見る死生感」について語られた。死に行くものは、私の死後よりも後に残る生者の世界を意識しているようで、トルストイも含めて果たして神を信じていたかどうかは謎の様である。文学は、人間界の「何でもあり」の世界を描くことによって、実は宗教の両義性を語っているのではなかろうか。質問の中で、「アフリカ現地人は、死者でも無い、生者でもない、中間の存在があると信じている」との発言があった。

 最後に、著者自身の心情として、「葬式仏教として、死者とかかわることをタブーとしてきたのは近世以後のことであって、我々生きているもののためだけの世界ではなく、死や死者を含め、不可視の他者と共にいることを忘れてはならない」と吐露している。まさに「哲学と宗教のレッスン」である。

 

山岸秀夫(編集委員)