2007.9.10
 
Books (環境と健康Vol.20 No. 3より)

スティーブン・ミズン 著(熊谷淳子 訳)

歌うネアンデルタール−音楽と言語から見るヒトの進化


早川書房 ¥ 2,200 +税
2006 年 6 月 30 日発行 ISBN4-15-208739-0

 

 

 評者は、本誌前号 280 頁 Books「ヒトはいかにヒトになったか−ことば・自我・知性の誕生」で紹介したように、ネアンデルタール(旧人)が言葉を使用していたかどうかに興味を持っていただけに、本書との出会いはむしろ遅きに失した。本書は 2 部構成になっていて、第 1 部で、著者は「音楽は言語から派生した単なる聴覚のチーズケーキのようなものなのか」との疑問を提出し、その解明のために、現代の音楽と言語の特徴を挙げて比較している。第 2 部では、その生成の歴史を進化史の観点から取り上げ、同じヒト属の 3 万年前に絶滅した兄弟種である旧人の生活様式とコミュニケーションの体系が考察されている。

 同じヒト属であるが、旧人は、原人と比べて舌下神経の太さや脊中管の大きさに関しては、現代人に相当する発音能力があったとする解剖学的証拠がある。しかし著者によれば、その生活様式は、全体的(Holistic)、多様式的(multi-modal)、操作的(manipulative)、音楽的(musical)な「Hmmmm」コミュニケーションによって支えられた、非言語的表象行為(マイム、mime)を意識的に行なうミネシス文化であった。すなわち、現代人が出現する以前の 20 万年前の地球のサバンナは、歌の掛け声で狩りをし、異性を歌で口説き、石器や火を使って歌いながら食と暖をとり、体毛の代りに衣服をつけて踊り、子どもを地面に下ろして子守唄であやす旧人の音楽に満ちていた。その歌声と踊りが一体感を刺激して、人々に協調行動をとらせて外敵と環境の激変に立ち向かわせ、少なくとも二度の氷河期に耐えて、30 万年も生存した。

 本誌 19 巻 4 号 Books「心とことばの起源を探る−文化と認知」で紹介したように、人間の認知における言語は、あたかも人間の経済活動における貨幣のようなもので、より明確な意思疎通を可能にする。その結果として、象徴的思考が可能となり、人工物を作成する。しかし旧人の遺跡からは、未だ、絵画、彫刻、建造物のような人工的作品は発見されていない。このことから“音のパノラマ”の世界に住んでいた旧人が言語を使用していた可能性は低いと考えられている。言語の発声には、分節音の検出が必須であり、実際に、分節音の発声に必須の神経回路の発達を調節する遺伝子の一つとして FoxP2 が同定されている。新人(ホモ・サピエンス)は偶々 FoxP2 遺伝子の変異の結果としてほぼ 10 万年前に言語という貨幣を手に入れたのかもしれない。しかしその貨幣の使用による人工物の劇的な増加は、その氷河期最後の間氷期の始まる、ほんの 1 万年前であるのは周知のところである。著者は、現代人の音楽は言語が進化した後で、旧人と共有した「Hmmmm」の残骸から生まれたものと考えている。しかも多くは、人工的産物としての特定の楽器によって演奏される音楽が新人のエリートと結びついた聴覚のチーズケーキであり、「Hmmmm」は超自然と語る原始宗教の祭典での祈りの歌にしか残っていない。

 評者は、本誌前号 282 頁 Books「本能はどこまで本能か−ヒトと動物の本能の起源」で紹介したように、言語も、鳥のさえずりのように、学習の結果として集団に広がった可能性を考えていたが、やはり新人(サピエンス)には、旧人(ネアンデルタール)に見られなかった新しい遺伝的変異が上積みされ、生得的、本能的能力としての言語が付与されたと考えるのが良さそうである。このことは、本書の中でも「言語なき音楽」(失語症)や「音楽なき言語」(失音楽症)として、脳内における音楽と言語との 2 重乖離が示されている。それにしても静的な経済的貨幣と異なり、意思疎通の貨幣といえども音楽は純粋な動的聴覚記号であり、言語は必ず相手を見つめて発音する視覚を伴った動的聴覚記号である。このような五感の情動的表現を排除した IT 社会の行く先には、現代人に代るヒト属別種の新人類の出現が控えているのかもしれない。そこでは、五感を介する音波情報の代りに、五感を要しない電波情報が行き通っていることであろう。

山岸秀夫(編集委員)