2006.3.1
 
Editorial (環境と健康Vol.18 No. 5より)


偽薬効果と医療


菅原 努

 

 

 新薬の効果を確認するための最終的な方法として二重盲検臨床試験を行うことが必要です。これは目的の新薬と、比較のためそれと区別のつかない形をした偽薬とを作り、それを医師も患者も知らない条件で2群に分けた患者に投与し、試験終了後に新薬と偽薬との効果を比較するという方法です。偽薬を使わないで、何も投与しない群をつくると、薬を与えられたと言うだけで患者は何か効果を期待し、与えられなかった患者と気持ちの上で差が出ることを怖れるからです。逆に言えば、偽薬だけでもときにはその新薬と同じような効果を得ることがあるということです。そこで新薬群と偽薬群とで効果に統計的な有意差が証明されたときに初めてその新薬が有効であると言えるわけです。

 この試験では、偽薬の効果は新薬の試験には邪魔になるものと見られています。しかし、ここでは反対にこの偽薬にも効果があるということの意味を問題にしたいのです。偽薬には理論的には何ら有効なものは入っていない筈です。それなのに何故効果があるのでしょうか。例えば鎮痛剤の試験で、全くの偽薬であるのに痛みが和らぐことがあります。今まではそれを単に気持ちのせい位に軽く考えていました。ところが最近になって痛みの機構についての研究が進むと、偽薬を飲んだだけで痛みを和らげる脳内物質でるエンドルフィンが放出されることが分ってきました。しかもその放出を抑える薬を予め与えておくと偽薬の効果もなくなり、反対にエンドルフィンの作用を強める薬を予め与えておくと、偽薬の効果も強まることが分りました1)。内容は偽薬であろうと効くと思って薬を飲むと身体はそのように反応しているのです。

 こうなるとよく考えなければならないことがあります。今はインフォームドコンセントで、医師は患者に治療についての最新の科学的知識を説明しなければなりません。それに基づいて、治療法の選択は患者が行うという建前です。ここでは偽薬の効果のようなものは極力排除されねばなりません。しかし、「この薬は有意差を持って今までのものより30%有効率が高いのです」と言うのと、「この薬は今までのものよりうんとよく効きます」と言われて患者として大いにその効果に期待するのとでは、違いがないのでしょうか。偽薬効果を認める立場からはどうも違いがあるように思えませんか。医師を信頼することの治療効果を偽薬の効果から説明できるのではないかという主張を読んで、このことを反省した次第です2)。この論文に紹介されているWilliam James(1842〜1910)は心理学から哲学に移った人で、医療における心理的な因子の重要性を1864年の論文で指摘しているそうです。

 インターネットで偽薬(プラセボ or プラシーボ)効果を調べてみると、ここで書いたのと同じ主旨の記事がありました3)

 “有効な薬がまだ少なかった昔、名医はきっとこのプラセボ効果をうまく使って患者さんを治療したのではないかと思います。あの人は名医だといううわさが広まれば、「あの人にかかればきっと良くなる」という心理が働いて、本来の薬の効果以上の効果が現われるでしょう。そういう意味では、現代の医者は余りプラセボ効果を有効に使っていないといえるかもしれません。”残念ながらこの記事には署名がありませんでした。

 これと丁度反対のことが外傷後ストレス障害(PTSD)だと考えられます。これについては先に本誌でも健康効果指標プロジェクトでも取り上げました(本誌Vol.16 No.2)が、アメリカのベトナム退役軍人では精神的な障害とそれに伴う脳の変化だけではなく、戦場に出た人と出なかった人とで、心臓病どころかがん死亡率にも明らかな差が出ているということです4)。いまやイラクで同じことが起こっています。そこでは無辜の人々が殺されるだけでなく、米兵も何時自爆テロにあうか分からず、また目の前で人に銃を向けなければならないという強烈なストレスにさらされているのです。それが精神からやがて肉体的な病にまで発展しています。これを避けるには退役軍人への手厚い手当ても一つだが、もう一つの考え方として何より戦争を止めることではないか、というNew Scientistの社説5)での主張は傾聴するべきものではないでしょうか。

 善きにつけ、悪しきにつけ、これらの事実は、からだとこころを統合的に考える「いのちの科学」の大切さを示していると思います。

参考文献

1) G.A. Hoffman, A. Harrington, and H.L. Fields: Pain and the placebo. Perspectives in Biology and Medicine 48(2): 248-65 Spring 2005.

2) Franklin G. Miller: William James, faith, and the placebo effect. Perspectives in Biology and Medicine 48(2): 273-81 Spring 2005.

3) http://www.page.sannet.ne.jp/onai/Healthinfo/Pracebo.html

4) J.Boscarino: Annals of Epidemiology (in press) cited from New Scientist 27 August 2005 :5-6.

5) In harmユs way: War leaves soldiers screwed up, and we should do more to help them. New Scientist 27 August 2005:3.