Editorial (環境と健康Vol.18
No. 3より)
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文理融合をどうして進めるか
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菅原 努 |
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私が購読している毎日新聞では数年前から「理系白書」と言う特集を組んでそれを纏めて出版(「理系白書」講談社 2003 年 6 月刊)しています。その内容は、日本の高度成長を支えながらも、文科優位の社会でかすむ理系という立場ですが、でも最後の章に文理融合を取り上げその必要性を訴えています。さらに「文科と理科の壁」をテーマとする公開討論会を開催しています。その情報に大いに我が意を得たりとよろこんでいました。ところが最近の紙面では、今の高校で文科と理科の分離がむしろ低学年化し、多くの進学校では高校2年から分かれたカリキュラムが組まれていると報じています。これは私が最近主張してきたこととは全く反対です。高校では有名大学の入試に合格するためにはそうしなければならないと担当者は言っているようです。いや実はそれどころではない、中学校でも高校入試を目指して文科と理科とを分けているところがある、とも聞きます。これではどうやら文理の融合は当分望めそうにありません。 でも全く悲観していても仕方がないので、もっと前向きに考えることにしたいと思います。私自身も文理とは言えませんが、医学部を卒業して医者になってから、夜は医者として働きながらもう一度学生になって大学で物理学を学びました。少なくとも二つの学門の違いだけは感じ取ることが出来ました。そこで二度大学を出た人に近親感を持っています。若い医者の中には工学部出が少なからず居ます。また知人には理学部の数学を卒業してからまた文学部で哲学を学んだと言う人がおれば、工学部を出て化学会社に勤め、定年後法学を学んで技術者の資格とその倫理を専門にしている人もいます。アメリカでは、最近ではもはや一つの専門を学んだだけでは一流になれないので、少なくとも二つの専門学科を学ぶ必要があると聞いています。 また最近文理が共同で研究した成旺がぼつぼつと出版されるようになりました。勿論私の狭い知識の範囲ですから総てを網羅したわけではありませんが、むしろ私の狭い視野にでもこれだけみられるのですから、実際はもっと沢山このような研究が行なわれているのではないかと思います。私の読んだ例を挙げます。 竹沢泰子編「人種概念の普遍性を問う」(人文書院 2005 年 2 月) 帯から:新たな共帳語としての人種概念をめぐり、その歴史的検証と包括的理解に向けて人文科学と自然科学の研究者が初めて協働した画期的成果。圧倒的な欧米ヘゲモニーがもたらす狭隘な人種理解にたいし日本、アジア、アフリカから地域を超えた強烈なオルタナティヴを提示する。 帯から:「病」をとりかこむ、さまざまな職業とその技術は、臨床文化をどのように形成しているのか−医療をとりまく状況の急速な変化の中で、とりわけ、あらゆる局蔓において市場化と標準化が強く進展する現代社会において、それらはどのように変化していくのだろうか。本書は、臨床文化と職業・技術の関わりに光をあてながら、現代社会における「病」の行方を考える臨床社会学書である。(この本は医学の臨床という場面を社会科学者が観察・解析したもので、前書に比べて文科的色頃が濃く私にはなお一部読みづらい部分があった。何故文科系の人はこのように分りにくい概念を多用するのだろうか。) さて、文理融合を言い出した私たちはそれではどうすればよいのでしょうか。それを理論付けてくれたのが本誌 Books に紹介したマーク・ブキャナンの「複雑な世界。単純な法則」に出てくるスモールワールドです。各学問分野はそれぞれグループを作っています。それを任意の細い糸で結ぶ事で一挙にスモールワールドができるのです。世間は意外に狭いものだ、それをうまく実現すればよい、ということです。私たちは昨年の秋から広い異なる専門分野から集めた小さいグループを作り月に一度集まって討論を繰り返しています。それを段々と形のあるものにまとめていくつもりです。先日第 46 回心身医学会の総会で、皆さんの前で日頃の討論振りを実演して見ていただきました。その後の懇親会で何人かの聴衆の方から、大きな賛同が寄せられました。また学会長の中井吉英関西医大教授によると、ドイツから招請講演に招かれて来ておられたヘルツオグ教授も教室員の帳訳を帳して聞き、あのような異分野の人たちが、和やかにフォーラムが出来ること自体、エクセレントだ。さすが「和」の国だ、と感心されていたそうです。こうして小さいながら少しでも芽を出そうという私達の試みは、受け容れられたと感じ取る事が出来ました。これからさらに我々の目標を絞るために、皆でいままでの議論をふまえて狙いのキーワードを作る議論をしようと言っているところです。 中間報告を兼ねて、現状を報告させていただきます。
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