Editorial (環境と健康Vol.18
No. 2より)
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公共政策と科学の役割
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菅原 努 |
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そこで少し過去をふりかえって見ましょう。1980年代にHIVとAIDSが問題になったとき、米国の保健当局はホモの人の数も、麻薬中毒で注射の回し打ちをしている実態も何も把握していませんでした。その後これらに就いて調査がすすみ、それに応じて適切な対策が立てられるようになりました。 環境問題でも同様のことがありました。アメリカでは土地の埋め立てが少数民族の住居地付近で盛んに行なわれ、これに対して反対運動が起こりました。しかし、その反対運動を強力なものにするのに必要な、その廃棄物がそこの住民に健康被害をもたらしていると言う証拠が得られていなかったのです。ここでは当然科学的調査が必要です。このようなことを私達は公害問題で沢山経験してきました。 経済的な問題でもこのことは無視できないとNew Scientist誌は主張します。1950年代以来、英米では平均的収入は大きく増加していますが、人々の幸福感、満足感は殆ど変らないそうです。英国政府はこれを改善する方策を探ってきました。そこでwell-being(快適生活)指数などが提唱され、保健、教育などへの予算、GDP(国民総生産)に代わる新しい指標の提案などがなされたのです。これらは、心理学、社会学などの広範な研究の成旺と言えるでしょう。 我が国では、一体このような問題はどうなっているのでしょうか。
食とリスクの問題を見ても、一方では科学技術的にリスク評価によると言い、実際には狂牛病の場合のように情緒的に全頭検査にこだわり、なかなか科学的なリスク評価に至りません。米国との交渉では食品安全委員会に委託してあり、そこでリスク評価を中心に検討しているので、その結旺を待たねば政府としても決定でできないと、如何にも科学的な評価に重きをおくような発言をしています。しかし、一方では次のような意見調査の結旺が発表されています。
この問題については国の食品安全委員会のリスク評価はまだ発表されていませんが、試みとしては中西準子がその「環境リスク学」(日本評論社 2004年9月)でもすでに「BSE(狂牛病)と全頭検査」として一つの章を設けて論じており、そこでリスク評価も試みています。これらを参考にして意見をまとめるのが、これからのリスクによる規制の基本であると思うのですが、リスク評価もなにもしないで、いきなり何となく意見を求めて、それを一つの世論らしきものとして示そうとするのは、正に食品安全委員会への世論に名を借りた干渉ではないでしょうか。リスク評価をしてからそれに対する意見を求めるのが、科学を政策に生かす基本であると思います。 国民の安全をまもるために、国民の意見も大事であり、また科学技術も大いに活用するべきですが、それには順序があります。その一つの提案がリスク学の活用です。それも勿論万全ではありません。そこで環境と健康を護るために、我々科学者も社会とともにさらに視野を広げて研鑚しようということで、私達は文理の壁を取り払った新しい研究分野の推進を提唱しているのです。
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