2001.9.1
 
Vol.14 No.4 Editorial

生物学者からみた図書館の意義と電子情報の問題点
原子炉実験所放射線生命科学・教授 内海博司
 

 

 最近のヒトゲノム・プロジェクトの結果、思いの外、ヒトゲノムが持つ遺伝子情報は少なく、多くても4〜5万であるということが明らかにされた。今は亡きカール・セーガン博士は、この事実を知るよしもなかったが、彼の著「エデンの恐竜-知能の源流を訪ねて-」(長野敬訳、秀潤社1978年)には、地球上の生命の進化において、DNAの遺伝情報や脳(脳情報)がいかに増大したかを、コンピューターのビット数で表し、生命の進化の頂点に人類が立っていること明瞭に示した。この図を私が非常に気に入っているのは、「人類については、もし肉体外の情報を含めるならば(図書館その他)、その情報量は、ヒトのゲノムもヒトの脳もはるかにしのぐ大容量である」として人類の肉体外の文化情報(▲)が示されている点である。


 遺伝情報といえば、昨年亡くなられた大野乾博士(「先祖物語」大野乾著、羊土社2000年)が「ヒトとチンパンジーの遺伝情報はまったく区別できず、チンパンジーはヒトの近縁でゴリラの遠縁にすぎない。この矛盾に満ちた事実を説明できるようなヒトとチンパンジーとの違いを調べたが、見いだせ無かった。唯一見いだしたのが、ヒトはチンパンジーより、頭蓋骨から舌を動かす運動神経系を通す穴が太くなっていたことである。ヒトをヒトたらしめたのは、舌がよく廻りだし、言葉をしゃべれるようになったことである」と結論している。

 「生命の進化において獲得形質は遺伝しない」という厳然とした事実がある。しかし、言葉をしゃべり、文字を発明したヒトだけが、肉体外の情報(図書館、美術館その他の文化施設)を持つことによって、遺伝情報や脳機能という生物学的な情報容量では、乗り越えることが出来ない進化のハードルをクリアしたと思われる。父親が努力して人間国宝になるような陶芸家(獲得形質)なったとしても、その子供がその獲得形質を遺伝的に受け継ぐことはない(努力する能力や、美的感覚などは受け継ぐかもしれないが)。しかし、父親が獲得したノウハウを、口伝する、文章にして残す、ビデオで残すようなことをすれば、その子供は勿論他人でさえ、人間国宝になるような技術を受け継ぐことができる。

 本川達雄博士も「ゾウの時間ネズミの時間」(中央公論社1992年)で、「現代人という生き物が、他の動物とは質的に違った生き物になっている」という感想が述べられている。本川博士は「全ての生物の標準代謝量は、その体重の3/4乗に比例する」という経験則を使って、「現代日本人が使っている平均的なエネルギー消費量を体重に換算すると、その体重は4.3トン、つまりゾウのサイズである」ということ、「生き物の生息密度は食糧確保の関係から大きさと関係しているが、日本の人口密度は、体のサイズ(60キログラム)から期待される密度の230倍でギュウギュウ詰めの暮らしをしている。逆に、この密度で生活している動物に換算すると、体重140グラムのネズミくらいの動物となる」という例を引いて、ヒトは質的に他の動物とは違った生き物(私に言わせれば「化け物」)であるという結論を出している。

 しかし、言葉をしゃべれることでヒトが化け物になったのでなく、文字を発明した後、ヒトは化け物になったと私は考えている。最近「銃・病原菌・鉄」(倉骨彰訳、草思社2000年)でピュリッツァー賞/コスモス国際賞を受賞したジェレド・ダイアモンド博士が、現在も文字を持たないニューギニアなどの先住民の人々が、老人たちを非常に尊敬し大切にしているという興味ある報告を「ネイチャ」誌に寄稿した(Jared Diamond, Unwritten knowledge. Nature, 410, 521, 2001)。文字を持たない人々は、肉体外に知恵の宝庫(図書館)を持てないが故に、年取った人たちを、危機を乗り切る知恵袋、知恵の伝承者として処遇している。例えば、歯を全て失っている老人たちは食べられないので、その子供たちが食べ物を咀嚼して柔らかくした後、供するという徹底したお世話の仕方である。

 一方、文字を発明した化け物たちが造る文明社会で、老人たちが受けている仕打ちはどうであろう。情報を絞り出されたゴミか滓のように扱われていないであろうか。若者たちが得る、人を直接介さない無味乾燥な情報が、人間くささ(生き物らしさ)を失わせてしまうのかも知れない。文字を持たない人たちの「口伝」という人間くささを通じた情報によってのみ、ヒトは化け物でない生き物として、生きていけるのであろうか。人が咀嚼した形の情報として伝えるシステムは、まさに教育そのものである。この教育システムがうまく機能していないことの現れかも知れない。未来の図書館には、この人間くさい機能を取り込む工夫をして欲しいものである。

 先人たちの言葉を借りるまでもなく、図書館が教育/研究の場において必要不可欠であることは云うまでもない。しかし、図書や図書館を大事に思い、十分な資金が提供されているかと云えば、本当に情けない現実がある。一方、ヒトの人生の短さ故に、人類が蓄えた情報を十分利用できなくなろうとしている。一日に2冊の本を読み続けても一年間で、たったの730冊、これを一生(100年?)続けたとしても、7万冊をちょっと越えるにすぎない。どうやって良書を選ぶのか、どうやれば必要な情報を確実に取り出せるのか。これまでのように本を並べ積み上げただけでは図書館ではなく、情報をどのように整理し、簡単に検索できるようにして、必要とする情報を直ぐ取り出せるようなシステム自体が、未来の図書館であろう。しかも、それが人間くささのある情報として提供されれば、願ってもないことである。

 ヒトは、自分たちを産み育ててくれた地球とその仲間たちとは異なった生き物に進化してしまっていることを認識して、ヒトをヒトにならしめた人体外の情報(図書館)を身につけなければ、まさにヒトの形をしたモンスターそのものに成り下がるであろう。

 最近、欧米の大学図書館のあり方を、視察する貴重な機会を得た。日本の大学図書館の図書館員は司書を含めて事務系に属し、本の選定や予算作成などは大学の教官(faculty member)が行っている。欧米では、本の選定や予算作成など全て図書館員(librarian)が行っており、修士や博士の学位をもっている専門的な図書館員もいて、情報を整理し、提供している。知恵の殿堂に紛れ込んだ闖入者にも、図書館員が適切なアドバイスを返してくるシステムを作り上げている。いかに図書館が教育/研究の場で必要不可欠であると認識されているかは、その総合図書館長の地位が、教官でないにも関わらず学部長より上であることが、雄弁に物語っている。大学教官の関わりは、良くてアドバイザー、多くは、このような本を図書に備えて欲しいと云うお願いをするだけである。大学教官が教育や研究の片手間に、図書の選定や図書館運営に関われないほど、毎日膨大な図書が生まれ、電子図書など異質の情報が世界中に溢れている現状がある。

 情報化社会への移行でさえ遅れている日本は、早急に旧態然とした図書館システムを改善しなければ、本当に大学の教育・研究自体が世界から取り残される恐れがある。日本にも欧米のようなコンピューターなどの教育をいれたlibrarian Schoolを作って、良き人材を作ることから始めなければならないであろう。

 大学図書館における科学技術情報のオンライン化によって、研究者は図書館に出掛けずとも、必要な情報を研究室から直接引き出せるようになった。多くの学術雑誌が印刷媒体の外に、電子化(電子ジャーナルあるいはオンラインジャーナル)され、電子ジャーナルのみの学術雑誌も誕生している。カレントコンテント(Current Content)から出発してJCR(Journal Citation Index)を発行し、インパクトファクターという新情報を生み出した米ICI・トムソンサイエンティフィック社は、Web of Scienceという科学技術情報サービスを行っている。約8,000タイトルの対称雑誌と、2,600万件を越える収録論文数をデータベースにして、研究論文と研究論文のつながりを検索できることによって、研究者たちの情報検索の苦労を大幅に軽減した。

 また、大学図書館自体も、古い図書館から電子図書館へと脱皮を試みている。図書館が所蔵している貴重本(古文書、古美術品など)を電子化して、広く一般人にも提供することも始めた。しかし、電子ジャーナルや電子情報が印刷媒体ほど長期保存できるのか(これはハードもソフトも含めて問題である)、著作権がどのようにして保護されるのか、著作料はどのように算定するのか、図書そのものの売れ行きへの懸念など、まだまだ難題が山積みしている。

 一方、電子ジャーナルや情報サービスの提供において、商業主義に乗った出版社/取り扱い業者が、情報を欲しがる大学人の弱みにつけ込んだ、法律すれすれの取引を行っている。最初の3年間は無料のお試し期間として電子ジャーナルを提供し、そのすばらしさにドップリ浸らせた後(一種の麻薬付け)、この(一種の麻薬の)悦楽をむさぼるためには法外な料金を請求するという、あくどい(麻薬)商売である。印刷媒体の購入額が、毎年10%上乗せされれば、今後とも電子ジャーナルの情報サービスは無料。そうでなければ、何千万円というサービス料の請求が待っている。電子ジャーナルが普及すれば、必然的に印刷媒体は必要最小限で良くなる。重複雑誌や利用頻度の低い雑誌を止めなければ、新しい雑誌を購入する予算がない大学側の事情もある。欧米の図書館を視察して、全ての国の全ての大学が同様な悩みで、出版社/取り扱い業者と闘争していることを知った。

 多くの官公立大学を持つイギリスでは、電子ジャーナル/学術雑誌の契約は国として一括契約をしていた。科学技術創造立国をうたう我が国は、学術情報基盤・学術資料の整備を緊急の課題として取り上げ、税金の無駄遣いにならぬよう、イギリスと同様、国レベルでこの問題に対処すべきであろう。大学が独立法人化する前に、解決して欲しい課題である。(この雑文は、京都大学付属図書館報「静脩」に掲載された原稿を、一部修正して転記した物である)