2001.5.1
 
Vol.14 No.2 Editorial

リテラシーについて
菅原 努
 

 

 リテラシーliteracyとは辞典によれば「読み書きの能力」英語ではthe state or condition of being able to read and/or writeとなっています。国全体としてはよく言う識字率というのがこれにあたり、日本はそれが明治以来極めて高いのが急速に発展した理由です、などと言われるわけです。最近では単に読み書きではなくパソコンを何とか使いこなせるか、といったことにもこれを使い、パソコンリテラシーなどということが言われています。私などは1984年に退職して事務所を開いたときにすぐにパソコンは設備しましたが、自分ではさわれず、専ら秘書さんの仕事でした。段々とオフィスの人が増えてみんながパソコンを使っていても、私だけは依然として手書き原稿を秘書に渡すという形でした。漸く10年経って73歳になってパソコンを家にそなえて練習を始めましたから、このパソコンリテラシーという言葉が実にピンとくるのです。

 ところが最近さらにいろんな所でリテラシーということが言われるようになって、驚きもしまたその使い方に感心もしています。その点をもうすこし考えてみましょう。先日原子力関係のある講習会で、私の前に資源エネルギー庁の方が「原子力の安全基盤の確保について」と題して講演されました。そのなかに、「的確な情報公開等により原子力安全に関する社会のリテラシーを向上させること」という文章があったのに驚きました。一体この場合のリテラシーとはどうゆう意味でしょうか。私の解釈では「理解力」とでも考えれば良いかと思いますが、そこまでリテラシーを広義にとっていいものでしょうか。そうして驚いていたら、書店で「メディア・リテラシー」という新書を見つけたので、とうとうここまで拡がったのかと感心した次第です。

 この本によると、今まで我々はメディア(テレビ、ラジオや新聞、雑誌から看板、ポスターさらにはインターネットまで)に囲まれて生活しています。しかし、われわれはそうしたメディアとうまく付き合っているでしょうか。ひたすら受け身でごもっともとそれを受け入れているのではないでしょうか。この本で著者は、メディアに対するそういう無批判な姿勢を“情報操作に踊らされるだけ”と退け、メディアを読み解くさまざまな知恵(つまり「メディア・リテラシー」)を身につけることで、もっとメディアとのつきあいを楽しく建設的なものしようと提案しているのです。その方法として、テレビや新聞さらには映画などが作られる過程を体験し、研究することを通じて、あらゆるメディアは、何らかの「意図、ねらい」を持ち、それを実現するために「構成、編集」されていることを理解することが必要であるというわけです。ここではリテラシーとはそのように読み方というか理解力というか、単に読み書き以上のものを意味しているようです。しかもこれは和製英語ではなく、れっきとした英語だそうです。ただしそれはアメリカでのことで、イギリスではメディア教育と言っているそうです。

 話はとびますが、私は日本フィルハーモニー交響楽団という財団の理事をしています。そこではどうすれば多くの人に聞きに来ていただくことが出来るかが何時も問題になります。そこで私はクラシック・リテラシーということを考えてはどうかと思っています。一体クラシックが好きだとか分かったというのはどうゆうことなのでしょうか。私のような素人愛好家には、そのように開き直られると全く答えがないのです。なにか音楽を聴くコツといったもの、コツと言って悪ければ音楽の聴き方という筋道があるのでしょうが、私などは中学生位から聞いてレコードばかりは山のように集めても、さてどのように聴いているのかと聞かれるとまともな答えはありません。ことに演奏の違いとなると、特別にへたくそなのは別として、さっぱりです。もしクラシック・リテラシーということが言えるならば、是非それを身につける方法を教えることで、もっともっと聴衆を増やすことが出来るのではないかとおもいます。これを楽団のみなさんにぶつけてみようと思うのですが、どんなものでしょうか。

菅谷 明子著 メディア・リテラシー ――世界の現場から――
  岩波新書  2000年8月発行 ¥660+税