2000.3.5
 
「環境と健康」 Vol.13 No.1 February 2000
Guest Editorial

安心できる安全の構築
京都大学名誉教授
西原英晃
 

 

 昨今の出来事を見ると、人工物が安全でなく、人々が安心できない事象が多く発生している。ここでは「物」と「人」の両面からその情況を分析することによって、より信頼性の高い「ものづくり」の技術を達成するための方策を考える。

安全と安心

  「安全」や「安心」という言葉を広辞苑で見てみると次のように書かれている。 安全:(1)安らかで危険のないこと。平穏無事。(2)物事が損傷したり、危害を受けたりするおそれがないこと。安心:心配・不安がなくて、心が安らぐこと。また、安らかなこと、とあり、ついでに「信頼」を見ると、信頼:信じて頼ること、と、二字熟語のそれぞれの漢字を説明している。

技術は社会のためにある

 「技術は社会のためにある」という当然の命題を基本命題として再確認しよう。社会は人の集合体であり、技術(それによって作られたものを含む)によって福利を享受する。福利の享受は対価をともなうにしても、公平になされるべきである。福利を享受できない人が過渡的には存在するにしても、技術は人々に危害を与えるものであってはならない。

 ところで軍事技術はどうか、という疑問が起こるが、専守防衛の立場をとるならば、防衛技術は侵略という外敵を排除し、安全を担保して人々に安心を保障するという側面を持つ。放射線防護を含むわが国の原子力技術は、平和利用に徹するあまり「防衛技術的」には極めて脆弱であるといえよう。

人が技術を使う

 未開社会では、技術を操ってものをつくる人と、その福利を受ける人の集団は同一であった。しかし文明社会では分業化され、ものをつくる技術者と、その福利を受ける集団とが一致しなくなっている。現代では、技術者は専門職能者となり、また、分業化が更に進んでいる。

 専門職能者は社会との契約によってそのなりわい生業を行っているとみることができる。専門職能者はその生業を行うために教育・訓練を受け、その専門職において独占的に業を営む。そしてその対価を受けるが、社会にその生産物を還元する義務がある。したがって、そのつくるという行為と、つくられる製品の特性は共にaccountable 注)でなければならない。

注) accountableであること、すなわちaccountabilityは、日本語では一般に「説明責任」という言葉が当てられているが、文脈によっては「説明責任」ではその意が正しく表されない。これはその一例である。

昔の住居と大工の棟梁

 上に記述したことを具体的にみるために、住居という人工物を例に取ろう。今も部分的にはそうであるが、少なくとも昭和初期までの日本では、住居を建てる「技術者」は大工の棟梁であった。彼は自身で大工の技術を身につけており、かつ左官をはじめとする技術者集団を差配していた。棟梁は、自身で手を下さないところについても掌握していた。すなわちaccountableであった。そのため施主に信頼されていた。住居そのものは地震、台風の害に対して脆いものであり、十分安全ではなかったが、危険度について棟梁は知っており、施主も了解していたとして良いであろう。その証拠に台風の前後など棟梁は自分が手がけた住宅を見回り、維持管理にも努めたのである。

 技能者として、大工たちは腕を磨いたが、その技術は時代とともに進歩することは少なかったと思われる。が、その技術は確実に後の世代へと継承されて行った。典型的な例は、20年に一度行われる伊勢神宮の遷宮にみることができる。

 これに対比して、高層住宅にその典型を見るような現在の住居については、言葉を費やして説明するまでもないであろう。後者を複雑系に属すると呼ぶならば、前者は単純系の所産である。そこで、仮に技術を単純系、複雑系の二つに分けて、考察してみる。それには、技術の伝承という時間的側面と、複雑系で顕在化する要素とシステムの絡み合った空間的側面がある。

単純系の技術

 単純系においては、技術は時間的に連続である。進歩がない、ともいえる。その伝承は、見習い、手ほどき、秘伝、世襲、丁稚奉公、棟梁・弟子の職階制、等々の封建的キーワードで表現することができる。一方、伝承される技術は“proven”であり、信頼が置けるが、非能率で生産性が低く、市場競争に馴染まない。反面、品質は維持され、顧客(=社会)からは安心感をもって迎えられる。

図 科学者集団、技術者集団によって社会に媒介される科学知識と人工物 このことを図示してみよう。それには成定(1)が科学知識と社会を媒介するものとして科学者集団を位置付けた図になぞらえてみるのが分かりやすい(図1a.)。その場合、科学知識を人工物に、科学者集団を技術者集団に置き換えただけの図1b.では不十分であろう。ピラミッドのように、人工物は技術者集団を介することなく(あるいはほとんど介することなく)、直接的に露呈している部分があるからである。また、本論から外れるが、成定が科学者集団と規定した中には、未分化の技術者が含まれていると想定して良いであろう。

 われわれがもの造りの対象とする人工物を取り出してみると、それは要素とシステムによって構成されている。かつての住居のような、単純系の人工物では、その構成要素の数は限られており、一人の技術者、例えば棟梁によって十分把握できる程度のものであり、また技術システムについても同様であった。さらに要素とシステムの絡み合いも少ないものであった。すなわち単純系の場合には、人工物は技術者によって見通しが利く、すなわちaccountableなものであり、その技術者が社会から信頼を受けていたので社会は安心してこれを受容していた。言いかえると透明性が高かったといえよう。ここでシステムとは、人工物の製造から運用までの操作を司る技術と定義しておこう。

複雑系の技術

複雑系である人工物 単純系の人工物に対し複雑系のそれでは、要素は多種多様である。このことは単に同時間的に多くの部品があるというようなことのみではなく、時間的推移についても多様であることを意味する。原子力発電所についていうと、制御系を含めた炉心技術は新規に開発されたものであるが、建屋を形づくるコンクリートは古い歴史をもつ技術である。歴史と伝承形態の異なる多種の要素が複合して複雑系を形づくる人工物の要素の市場性は、伝統的な人工物、すなわち単純系のそれとは異なり、比較的短期でありイノベーションを繰り返す。コンピュータ・チップなどはその典型例であろう。要素技術の伝承は、現代においては、それぞれの要素の市場性に合わせたものとなっており、異なる時間尺度で行われる。複雑系といわれる所以である。複雑系の人工物を図示すると図2のようになって、それは連結した要素群、独立した要素群とこれらを複雑に取り巻くシステムから成り立っている。複雑系では全体を見通すのは容易ではない。そのためこれをaccountableとするには意識した努力を要する。

 

 

 

安全・安心・信頼から見た複雑系

 安全が崩れるのは、人工物が社会に直接的、または技術者集団を介して危害を及ぼす場合に生じる。単純系を形成する人工物は一枚の紙から折られる折り紙に例えることができよう。要素である紙の質は単一で、品質を云々することは不要である。これに対して複雑系は糊代で貼り合わされた切紙細工である。それはさまざまな紙切れから成り立っており、複雑になればなるほど貼り合わせ部分が心配になる。トンネルのコールド・ジョイントの破損がその一つの例であろう。システムの保障が十分でないまま社会に接触し、安全が破れている。これを「折り紙−糊代のアナロジー」と呼ぶことにしよう。Integrityが保障されている折り紙に比べ、糊代で貼り合わされた複雑系である人工物は、社会からの信頼を得るためには、折り紙と同等な見通し、透明性を持ちこむ必要がある。「安心社会から信頼社会へ」といわれるのは、まさにその所以である(2)。では、いかにしてそれを実現することができるだろうか。

安心できる安全の構築

 それでは、いかにすれば安心できる安全は構築できるのか。ここでは次の2点を挙げておく。

  1. 人工物要素間の物理的、業務的接合の「堅牢性」の確保を理解させること 長期的観点からは、人工物をトータル・システムとして理解させるよう、技術者教育/工学教育を行うことである。もの造りのどのdisciplineにあってもこの事は基本である。糊代、すなわち接合部分の堅牢性は物理的なそれに留まらない。業務的接合の堅牢性の破綻が最近目立つ。厳しく指弾されているのは、元請け−下請け間の「垂直的接合」問題である。また、水平的な接合問題として技術情報の伝達問題がある。情報の移転は無償ではないが、システム崩壊のリスクを認識すれば支払う対価は問題とならないであろう。情報の伝達は、また、時間軸の上でも重要なファクターであり、適切な伝承がなされない技術は信頼されない。
  2. 技術者に対するものづくりのモラルの徹底
    a. 人工物の公衆の安全、福利、健康に対する影響や環境への影響の理解と保全
    b. 上記を実施する上での企業内ethics-officer制度の確立

 これらが製造物の安全を確保し、その過程を透明なものにすることによって、安心が醸成されよう。

 米国ではすでにこの観点から工学教育の再編成が始まっている。例えばシアトルのワシントン大学では2004年から、スタンフォード大学ではいつからかは不明であるが近々、ものづくりシステムの教育研究を総合的に扱う学科が発足する。わが国も立ち遅れすぎてはいけない。

 

参考文献

(1)成定 薫『科学と社会のインターフェース』平凡社自然叢書24、1994、p.130
(2)山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』中公新書1479、1999