「環境と健康」 Vol.12 No.4 August
1999
Editorial |
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ものづくりの知に学ぶ |
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菅原 努
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このイメリタスクラブにはいろんな分野の方が居られるが、最近エネルギー工学が専門で永く京大原子炉実験所の所長をしておられた西原英晃名誉教授から工学分野の問題点を考えさせるものとして、次の二冊の本を教えて頂いた。それはC.E.ハリス他著「科学技術者の倫理」と斉藤了文著「ものづくりと複雑系」とである。面白いことに二冊ともアメリカの宇宙計画の話ではじまる。前者はチャレンジャー号の事故、後者はアポロ13号の事故である。チャレンジャー号は、発射後73秒で爆発し6人の宇宙飛行士と一人の高校教師の命を奪った。アポロ13号は宇宙空間で酸素タンクが二つ共に爆発し、それにもかかわらず、三人の宇宙飛行士は地球に無事生還できた。前者ではその夜気温が異常に低下したので、ブースターロケットの各部間のシールに漏れを生じ事故になる可能性を怖れて発射の延期を申し出ようとした技術者が、「君は、技術者の帽子を脱いで、経営者の帽子をかぶりたまえ」と言われてgoのサインを出してしまったところに倫理の問題があるとしている。これはリスクをどう評価しそれにどう対処するべきかということである。これに対して、アポロ宇宙船の場合には、これにはほとんどのものが二つ以上ダブッて搭載されていて、冗長度の高い余裕のある設計になっており、また地上に同じ構造のシュミレーターがあり、それらの活躍でその難局を何とか切り抜けることが出来た。これこそ工学のものづくりの思考法の中心をなしているのだと言うのである。 わが国では、科学技術として科学と技術を一くくりにして考えているが、上の話はこの二つのものを十分に考え分けなければならないことを示している。技術を通じて新しい物をつくると、それは便益と共に思わぬ危害を人に及ぼすかも知れない。ここで、米国では科学技術者は専門職として「公衆の安全、健康、及び福利を最優先する」ところに倫理の基準をおくべきである、とされている。これは上にも述べたように、ヒトに対するリスクを中心とするもので、科学技術者をこれに対する正しい理解なくしては、倫理的な行動が出来ないということである。科学者がただ好奇心の赴くまま、真理の探究を目指すというのでは困るので、世に科学者の社会的責任と言われているものは、ここで明瞭な形で見られる。では技術者というのは科学者の僕で、科学者が見出した原理を応用して物を作る職人にすぎないのであろうか。此の点が第二の本の主題である。 最近の新聞に自動車を衝突させてその修理にどれだけ費用が掛かるかを比較したという記事があった。「人気のSUV(スポーツタイプ多目的車)は、時速8キロ程度の衝突でもバンパー部分に1,000ドル以上の被害が多発することが、米保険業界団体、高速道路安全保険協会の16日発表した調査で分かった。」というものである。しかも、この費用がメーカーによって大きく変わると報じている。一体何故こんなことをするのであろうか。設計図を見比べて車の丈夫さを判定することは出来ないのであろうか。正にそれが出来ないからこそ、このような乱暴な実験が行われるのである。そうして見ないと分からない複雑さが自動車にはあるということである。工学は物理学の僕ではない。科学は知ることを求め、工学はすることを求める。その為に行う実験も科学と工学とではその意味が違う。科学の実験は仮説の証明の為にそれを検証するためのものである。これに対して工学の実験は上にも例を示したように、理論だけでは知り得ない必要であるが複雑な情報を得るためのものである。科学は客観的真理の世界を問題にするのに対して、工学的考え方は基本的には、絶対者が居ない世界でどのように行動すればよいかを教えるものである。いわば工学では限定された合理性の世界の中でことを行うのに、科学では理想化、単純化によって一般性を求めていくという違いがある。従って技術では倫理で問題になるリスクも得られる情報は限定されていることを忘れてはならない。 私がこのような第二の本の主張に共鳴するのは、前にも此処で述べた(本誌Vol. 12 No. 1 Editorial)ハイパーサーミア装置の開発をめぐっての日米の違いを実感しているからである。アメリカでは深部の腫瘍を集中的に加温する為に、高度な電波の技術とコンピュータを用いて電波の集中する装置を作った。勿論それには生体側のいろいろの性質、条件は取り込まれている。そして、それは人体模型ではうまくいった。しかし、実際の臨床の場では患者の苦痛が大きくて使えないことが分かった。臨床医がその報告をすると、設計をした物理学者からそれは使い方に問題で装置の問題ではないと反発されて、医者は黙らざるを得なかった。このようなことの繰り返しで結局アメリカでは加温装置の開発がうまくいかず、ハイパーサーミアそのものが停滞している。これに対してわが国では、材木や冷凍肉を加温していた技術を人体に適応することから開発が進められた。臨床家の提案で経験に基づく改良が次々と加えられ、加温性能が向上し今では肺がんや腹部腫瘍にも広く用いられ、優れた成績を収めている。アメリカでは臨床試験は装置の性能を確認するだけの為のものであったが、それに失敗したのでそれからハイパーサーミアそのものに希望がもてないという結論が下されてしまった。これは正に科学としての進め方である。これに対してわが国でのやり方は実験は複雑なものを解き明かすステップとして捉え、それをふまえて装置が作り上げられた。これは正に工学の道で、この本が説く「ものづくり」はこうなければならないというのに一致する。 この「ものづくり」の知は、放射線防護の体系にも適用すべきではなかろうか。今の国際防護委員会の体系はまさに科学を目指している。従って先ず単純化が行われた。それがしきい値なしの直線性仮説である。その上に総ての体系が築き上げられた。ところがそれを適用する対象は複雑な社会である。それを世の中には放射線だけが特別のものとして存在すると割り切って、単純明快な体系が作られた。今問題は生物学の方から直線仮説に対して提起されているが、元を質せば防護体系を科学として立てるのか、これは複雑な社会を相手にする工学、「ものづくり」として考えるのかを検討しないで一方的に話を進めてしまったところに問題があるのではなかろうか。安全な車ということで、頑丈な鉄で囲まれた車を作って、どんなに外からぶつけられても大丈夫と威張っているようなものではなかろうか。気が付いてみると、なかの運転手は閉じこめられて病気になっていた、即ち外的からはよく守られたが内部の障害を促進していたと言うのでは問題である。 今放射線障害として問題のがんを考えても、ひとはいろんな原因でがんになる。原因不明でゆわゆる自然発がんも少なくない。一生懸命に外からの放射線を防いでいても、いつの間にか自然発がんが起こっているかもしれない。「ものづくり」としての放射線防護体系こそ、限定された合理性の中でわれわれが真剣に取り組むべき課題ではないか。それには「ものづくり」の知として、今までの防護の体験、現在の防護体系のもとでどのような障害が起こったか、起こらなかったか、改良すべき点は何か、などを慎重に検討するところから始めるべきであろう。 参考:
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