2002.3.4
藤竹 信英 |
|||||||
1. 京洛そぞろ歩き(1) |
|||||||
東山という地名は早くは嵯峨天皇の漢詩「和光法師遊東山之作」に詠まれている。ついで清少納言の枕草子には「月は有明の、東の山ぎはにほそく出るほどにいとあはれなり」とみえる。さらに紫式部の源氏物語では、光源氏が急死した愛人、夕顔の亡骸をひんがしの山のほとりの僧坊に移すくだりは鬼気が迫る思いである。 元来、東山三十六峰は中国の崇山三十六峰になぞらえたという説もある。中国河南北部の崇山には大小三十六の名峰が連なり、唐の則天武后もあがめたところである。 この東山三十六峰の命名の時期は何時と考えればよいであろうか。鴨川のほとり、丸太町通りの北に「山紫水明処」を構えた頼山陽がその名付親である可能性は高い。此処から東山の連峰は指呼の間である。しかも彼は三十六峰外史を号している。 少し時代を遡ると石川丈山という風流人もいる。丈山は大阪夏の陣で抜け駆けをして軍令に背き野に下った。その後、詩文に親しんで晩年を一乗寺の里の詩仙堂で送った。彼の号に六々山人という名がある。六々山人は三十六山人と呼び代えてもよい。一乗寺の里は東山三十六峰にちなんでの六々山人であったのかもしれぬ。 しかし、この東山三十六峰の名声を全国に馳せたのは、無声映画時代の弁士や地方廻りの座長芝居などでの「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時、突如起る剣戟の響き……」の名調子によるものといわなければならない。 今日、東山の山麓をたどると、名のある社寺が限りなく続くのに一驚する。 修学院離宮 から始めるならば、林丘寺・蔓殊院・詩仙堂・金福寺・北白川天満宮・銀閣寺・法然院・真如堂・金戒光明寺・若王子・永観堂・南禅寺と続いて、さらに吉田に廻れば、吉田神社・聖護院、そして平安神宮のあるあたりはかって六勝寺の営まれた場所である。 六勝寺とは円勝寺・延勝寺・最勝寺・成勝寺・尊勝寺・法勝寺の六寺を指すのであるが、なかでも承暦元年(1077) 白河法皇の開かれた法勝寺は九重八角の塔がそびえる巨大な伽藍であったという。 鹿ヶ谷は平家討滅の陰謀が行われた僧俊寛の別荘があったところだ。そして平安神宮を過ぎるとすぐ粟田口の青蓮院に入る。隣合せて智恩院・八坂神社・長楽寺と続いてゆく。高台寺は多くの塔頭を従えた寺、八坂塔は法観寺、清水寺・清閑寺は共に東山連峰の中腹ともいうべき所、麓に下がれば六波羅蜜寺・豊国神社・妙法院・智積院・三十三間堂とつづく。 新熊野神社から東福寺までの間に山中に入って観音寺や泉涌寺があり、そして最後に稲荷神社というわけである。すべてが由緒をもち、自ずと平安朝以来の歴史を物語っている。 この歴史と東山三十六峰を結ぶことは至難の業といわなければならないが、昭和31年頃、京都新聞社が「東山三十六峰」の連載を企画した時、郷土史家の協力を得て取りあえず三十六峰の山名を決めたのである。これとても定説とはいえないが、以下にその山名を記してみる。 【東山三十六峰】
いずれ機会をみてこの三十六峰をたずねてみることにする。
|