2002.6.1

 

藤竹 信英

 

4. 東山三十六峰のうち 第十八峰 大日山(だいにちやま)

 

 
 大日山を訪ねることにした。蹴上から旧国道ぞいに東に進むと左手に日向(ひむかい)大神宮参道の石標がみえる。ここを北に入ると疎水運河にぶっつかるのである。これは琵琶湖の水を京都に引いて、上水・発電・灌漑・運輸・防火等の事業に利用するために建設された明治時代に於けるわが国最大の土木工事といってよいであろう。

 古来、滋賀と京都との間には、物資の輸送を著しく妨げる二つの難所があった。逢坂山と日の岡である。時の府知事北垣国道はその対策として、京都人の夢である「疎水運河の開通」という難事業をぜひ実現させたいと考えた。たまたま、工部大学校の学生田辺朔郎が「琵琶湖疎水工事計画」と題する卒業論文を完成させたことを耳にした北垣知事は、「渡りに船」とばかり無理を承知で、知人工部大学校長大鳥圭介に頼み込んでこの弱冠二十一才の学生田辺朔郎を主任技師に任命した上で、設計及び工事指導の総てを委ねた。明治16年(1883)5月のことである。この英断は結論として大成功であった。運河の完成によりはじめて近代京都の産業の基礎が確立したといっても過言ではないだろう。しかしその工事中には「血税の浪費」あるいは「技術不足」などの反対の声もかまびすしかったのである。 そもそも京都市は北高南低なので、すべての川は北から南へ流れて末は大阪湾に注ぐのであるが、この疎水だけは唯一つ反対に南から北へと流れる。この一事をとっても尋常な工事でないことが判かる。反対意見も根拠のないことではない。従来の伝統的工法しか会得していない技師・作業員に、工事にかゝる前夜に即席で新技術を伝授するという離れ業も稀な事ではなかった。このようにして、固い岩盤にダイナマイトを使用することなどを除けば、その他は殆ど人力だけでこの運河は完成された。

 運河というとスエズやパナマのような露天の運河を連想するが、京都と滋賀の間には山地が介在するため、琵琶湖疎水には大小三つのトンネルが必要であった。一番の難工事は滋賀県側の長等山を堀る第一トンネルで、全長は2,436mあり、それは当時日本ではまだ掘ったことがない距離であった。両側から掘り進む従来の工法に加えて、わが国で初めて山の上から堅坑を二カ所掘ったのである。

 その上、もう一つの難題は今度の疎水運河では、琵琶湖と京都市内とは同じ水位ではなかったことである。そこで船が航行するために、パナマ運河に倣って水位を上下する閘門を数カ所に設けねばならなかった。京都市内まで来た船は台車に乗せられ、「インクライン」(傾斜)で降ろされて南禅寺の船溜りで再び水面に浮かぶように作られた。

 ところが工事中に米国から、世界最初の水力発電が成功したというニュースが入った。疎水の多目的利用を考えていた北垣は急遽田辺を米国に派遣し、コロラド州の水力発電所を視察させた結果、日本で最初、世界で二番目の水力発電所が蹴上に造られた。この電気が京都市に、日本で初めての電車を走らせたのである。

 工事は五年がかりで、明治23年(1890)に竣工した。総工費125万円、当時の府の年間予算が大体50万円だったことを思うと、途方もなく巨額であった。それにもかかわらず、完成時、四月九日の竣工式の前夜は市内各戸に日の丸と提灯が揚げられ、インクラインの船溜り前には祇園祭の月・鶏鉾と天神・郭巨両山が並び、盆の送り火だけの大文字も特に点火されるなど、京都府・市民の喜びようは空前絶後であった。

 おわりに疎水運河につくられた洞門や碑について述べると、そこは高官・元勲たちの額や碑文が残されている。皇族からは久邇宮邦彦親王が額を二つ揮毫している。一つは『易経』から取った「萬物資始」で、「萬物資(と)リテ始マル」とある。もう一つは、「欽哉惟時 亮天功」からとったもので、「欽(つつし)メヤ、惟(こ)レ時(こ)レ、天功ヲ亮(たす)ケヨ」とある。北垣国道は「宝祚無窮」と書いている。これは「君が代は千代に八千代に」と同じであろう。唐の劉長郷が山中に棲む隠者を尋ねる詩、「過雨看松色 随山到水源」は逸品である。松方正義と西郷従道の二人が引用する。松方の引いた前半の「過雨看松色」は疎水の掘られた松林の山中に似つかわしく、西郷の選んだ後半の「随山到水源」は、山に附いて行くと水源に行き着くという正に山中を流れる疎水にふさわしい詩である。三条実美の「美哉山河」は判りやすい。田辺朔郎の「一身殉事萬戸霑恩」は一身を大事に捧ぐれば多くの家々はその恩恵に浴する、の意であって、いかにも少壮技術指導者の意気込みが窺える。

 最後に、南禅寺から国道一号線へ出る短いトンネル両出入り口にも額が嵌められているが、現在揮毫者は不明である。国道側は後年の補修もあって、「雄観奇想」はよく読める。勝れた眺め、奇抜な発想、とは正に疎水そのものを表している。南禅寺側は風化が激しいが、読めるのは「陽」と「気」だけであるが、それは「陽気所発」を示していると思われる。これは朱子語録の「陽気所発石亦透 精神一到何事不成」と思われる。

 大日山については、また東岩倉山の別名がある。それは平安京に遷都の時代、巨大な盤座(いわくら)に神が降臨すると考える古代の信仰に従ったものである。
京都の四方にあらかじめ四磐座を定め、経文を納めた。その名残がこの東岩倉山とそのほかに左京区岩倉の北岩倉山、次に西京区大原野金蔵寺の西岩倉山、最後に下京区松原通麩屋町の南岩倉明王院不動堂の四ヶ所に残るのである。


編者註:藤竹先生はどうやら大日山は西の登り口までしか行かれなかったようです。説明のある碑文を見るには足を伸ばして山科疎水を歩いていただく必要があります。地下鉄で山科まできて北へ向かって歩くと、自然に疎水にでます。その一番西寄りに日本初の鉄筋コンクリートの橋があります。そこから大日山を越えて日向大神宮へ行く道がありますが、けわしい登りが3ケ所、下りが1ケ所と道しるべに書いてありますが、誠にけわしい歩きにくい道ですので、登山好きでない方にはお勧めしません。引き返して坂をおり、御陵(みささぎ)からまた地下鉄に乗って京都の方へ戻ってください。