2004.4.5
 

 平成16年健康指標プロジェクト講演会要旨

第48回例会
(4月17日(土) 14:00〜17:00、京大会館102号室)

美食する脳:おいしさの感覚の科学

伏木 亨
(京都大学農学研究科食品生物科学専攻)
 


はじめに
 おいしさの感覚は複雑であり個人差も大きい。同じ食品に対してもしばしば好き嫌いが分かれるため、おいしさは科学的な理解が困難と思われてきた。しかし、おいしさをいくつかの単純な要因の複合であると考えると、それぞれには一定の科学的な原理が存在する可能性がある。私は、おいしさを科学的に取り扱うに当たって次のような整理が可能であると考えている。
 (1)人間には生理的な状態に基づく欲求があり、それに合致する食品はおいしく感じる。
 (2)文化に合致した美味しさ。人間や民族の文化の上に発展してきた食の歴史と嗜好に合致するものは、安心感が感じられる。反対に、民族や集団の文化では理解できない味や風味は違和感が残る。
 (3)情報がリードするおいしさ。 人間に特有のおいしさであるが、安全や美味などの外来情報が、脳内での味覚の処理に強い影響を及ぼす。
 (4)偶然に発見された食材による、薬理学的な美味しさ刺激。上記に当てはまらないが、栄養素の有無とは関係なく美味しいもの、例えば香辛料やファストフードの味付けなどはこのような表現が妥当である。高度の嗜好性食品という言い方もできる。執着に近くなった状態である。これは薬理学で言う報酬効果であり、ここでは「薬理学的おいしさ」と呼びたい。

生理的な欲求に基づくおいしさとは
 特定の栄養素の欠乏、渇き、空腹、疲労など、動物や人間には共通の生理状態がある。欠乏している栄養素を摂取した際には本能的な快感が得られる。また、生理的に有害な物質に対しては不快感や嫌悪感が生じ、動物の適切な食物摂取の方向をコントロールしている。人間は、動物よりも特定の栄養素の欲求を明確に感じる能力が衰退していると思われるが、それでも著しく欠乏しているものが摂取できたときの満足感は感じられる。人間の食品の選択には、このよう生理的な要因が無意識下に働いているのではないかと思われる。

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表1 味覚の意味
甘味  糖の存在      カロリー、血糖になる
塩味  ミネラルの存在   電解質維持、ナトリウム
旨味  グルタミン酸    タンパク質の存在
酸味  酸類        未熟な果実、腐敗
苦味  化学物質      危険な異物の存在
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興奮? 脂肪        高カロリー 
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 生理的な欲求に合致する食物の味はおいしく感じられる。味には栄養学的な価値を予見させる信号としての意味があり、人間や動物はそれを承知している。 一口だけ囓るという、危険の少ない少量の試食で栄養価や安全性を知るために味覚が利用されるのである。
 血液中のグルコースは、通常、脳の唯一のエネルギーとして重要であるため、血糖は常に一定に保たれる。血糖低下やエネルギー欠乏は甘味に対する欲求を引き起こす。糖尿病の動物が甘いものを欲するのは、血糖が組織に取り込まれないため、糖の欠乏状態に近い欲求が維持されるのであろうと考えられる。糖尿病が進行すると、動物は糖をあきらめ、甘味嗜好から脂肪の嗜好に変化するが、これも、利用できるエネルギーを好むという合理的な適応である。
 サッカリンはエネルギーにも血糖にもならない。動物実験では、サッカリンは、最初は好んで飲まれるが、連続して与えると次第に嗜好性が低くなる。食べても血糖やエネルギー補給の役に立たないと判断され、甘味の感じ方に変化が生じたものと想像される。
 塩味は、ミネラルのシグナルである。特に重要なのはナトリウムである。ナトリウムは、カルシウムや鉄とは違って、生体内での予備貯蔵量がきわめて少なく、体液中で厳密な濃度調節のもとで存在している。わずかの不足も細胞の機能に直接影響するため、ナトリウムの不足に対しては強い塩味の欲求が起こる。 反対に、ナトリウムが多すぎるのも生体にとっては危険である。吸い物の塩濃度は血液のそれに近い。濃すぎるとからく感じる。濃すぎる塩味を避けることによって、ミネラルの摂取量が味覚のレベルで調節されている。
 うま味は、主にアミノ酸、核酸などの味であり、タンパク質や細胞成分が豊富に存在することを示す信号となっている。アミノ酸と糖の複雑な褐変反応の中間体であるアルデヒド類やアルコール類、複雑な発酵生産物などもまた、食品の美味しさに大きく寄与している。これらが、おいしさとして普遍的に受容されていることは偶然ではないであろう。
 酸味は、本来は忌避されるべき物質の信号である。未熟な果実、腐敗して酸っぱくなった食物などを暗示する信号である。一方で、運動後の酸味欲求は有機酸の種類に特異性があり、後述するように、クエン酸サイクルに直接取り込むことのできるクエン酸を欲求するものと考えられている。
 苦味も、植物アルカロイドなど、毒性のあるものの味を表している。化学薬品などの異物に対する警戒のための信号でもある。
 必須の栄養素や体構成成分が欠乏し始めると、動物はそれを回避しようとして当該の物質を強く欲求する。欠乏している栄養素が含まれる食物を、格段に美味しく感じるような、代謝と味覚の連関が存在するのであろう。

疲れると甘いものが欲しくなる
 疲労すると人間や実験動物は糖に対する欲求が高まる。30分間の自転車エルゴメーターで運動させると、人間の甘味要求が高まる。被験者は、運動後には運動前よりも甘味の強い飲料を選択するのである。運動によって失われた血糖やエネルギーを補給するために最も利用しやすい糖質の甘味に対する嗜好性が高まったと解釈できる。疲れているときには甘いものが欲しくなるという一般化も可能であろう。
 疲れると酸味がおいしく感じられることも報告されている。森本らの実験では、運動によって疲労させた動物はクエン酸を特に好む。ミトコンドリア膜を通過しにくいリンゴ酸は逆に好まなくなったという。ミトコンドリアの膜を透過しやすく、クエン酸サイクルに利用されやすい有機酸の味が疲労時に好まれることは、生理的に合目的な味覚の変化である。

情報もおいしい
 人間やサルでは、大脳が大きく、おいしさに関わる脳の情報処理機構が発達している。ラットでは、味によって食物の安全性や栄養価値が直接的に判断されるが、サルや人間では味覚以外の情報も大きく影響する。見た目や匂いなど様々な情報が脳に集められ、味から得られた情報とすり合わされ、最終的な価値判断が行われる。見た目の期待と味わいが大きく異なると警戒感が生じる。情報が味覚から得られるおいしさを減退させる可能性もある。人間では味以外の情報を重視する代わりに、味覚による本来の判断能力の鈍化が起こると考えられる。食品の情報が氾濫するのは、食物をより安全に摂取しようとする人間特有の現象である。

 安全の情報は人間にとって重要である。小さなパンに一つだけからしを入れて被験者に選択させる実験がある。被験者はどれにからしが入っているのかわからない。被験者は、はじめに、匂いや色や形から異常がないことを判断し、安全と考えたパンを一口だけ噛む。大丈夫ならばもう一口摂取する。これで大丈夫 ならば、もう少し食べる。
 このプロセスは野生動物の餌の食べ方に似ている。からしが入っているかもしれないと知ってしまうと、もはやそのパンは通常の安全な食品ではなくなる。
実際には,からしを入れなくとも結果は同じである。安全が保障されない食品を食べるという状況は、充分な情報のない野生動物のそれと同じである。
 人間は文字によって容易に情報が得られるため、動物のように食べ物をいちいち舌で確かめなくても安全の情報は得られる。表示など食物に関する情報は、個人に代わって社会が安全性を確保する最も進んだシステムである。現代社会は、集団レベルで食の安全性をほぼ確立したと言える。
 情報は、さらに、生きるための食物摂取から、食を楽しむための摂取にまで、大きな影響を及ぼすようになった。極端な例では、先に、味に関する情報を得てからそれを食する。集団から個人がおいしさを習う。現代では、この集団としてのコンセンサス、すなわち、評判が、おいしさの判断に大きな影響を及ぼすようにもなってきている。
 
薬理学的おいしさとは
 マウスに食用の油脂を含むけんだく液を与えると非常に好んで摂取する。二瓶選択実験などで、動物性、植物性を問わず高い嗜好性を持つことが容易に観察できる。ミネラルオイルやカロリーのない代替脂質に対してはすぐに嗜好性を示さなくなることから、油脂のカロリーが重要な要因である。実験動物は、体脂肪が増加し肝臓にまで脂肪が蓄積されるようになっても、まだ脂肪の摂取をあきらめない。一種の執着である。
 高カロリーの油脂は動物にとって魅力的な栄養素である。油脂を摂取することによって動物は本能的な快感を報酬として得ている。これは、次のような簡単な実験であきらかになった。
 用いた条件付け位置嗜好性試験の原理は簡単で、白黒2つの連結した箱を用意しその連結部分にマウスを入れる。シャッターを開き自由に20分間往来させたときの各箱における運動量と滞在時間を測定しベースラインとする。まず実験初日は白い箱にマウスを閉じこめて油を30分間与えるとマウスは油が好きだからこれをぺろぺろ舐める。次の日には、黒い箱に水を設置する。その次の日にはまた、白い箱に油をおき、その次の日には黒い箱に水を設置する。これを3回ほど繰り返すと、白い箱に行けば油が舐められることをマウスは学習し条件付けが成立する。最終日に、白い箱にも黒い箱にも何もおかないで連結し、ネズミを入れて運動量と滞在時間を測定しベースラインと比較する。もしも、ネズミが油に執着すれば、油があるはずの白い箱の中をうろうろし長く滞在する。このような行動が観察されるとき強化効果(報酬効果)があると判定する。執着である。
 さて、100%コーン油による条件付けによって、コーン油を設置した白箱での滞在時間が著しく増加し、コーン油の強化効果が示唆された。この効果はコーン油摂取15分前にオピオイドの拮抗剤やドーパミン拮抗薬の投与によっても消失しした。同じことがコーン油のみならず、実験に用いたすべての食用油脂やポテトチップスなどでも観察された。
 大阪大学の山本隆教授らによると、おいしさは、純粋な「美味しい」という判断と、それによって引き起こされる行動である「欲しい」に分けて考えられる。そして、「美味しい」に直接関係すると思われているのが、主にオピオイドらしい。それを受けて、ドーパミンが「欲しい」という行動に駆り立てると考えられている。脳内のオピオイドとしては、βエンドルフィンが有名である。
 ドーパミンは、報酬の感覚に関わると考えられてきた。美味しいという快感が報酬である。しかし、ドーパミン自体は「美味しいという判断」ではなくて、エンドルフィンやベンゾジアゼピンなどによる美味しさの感覚を受けて「欲しい」という感覚に関係していると考えられている。この、「欲しい」という感覚は、美味しい物をもっと食べたいという動機を高めるものであり、食物に対する執着の原因でもある。油脂に対する執着が報酬効果として行動学的に観察されたのは、このようなメカニズムによるものであろう。

 

 

 
 

 

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