1999.9.1

 

  6. 日本人の寿命---倭国から江戸まで
 

 

 有史前後以来の状況を立川昭二:日本人の病歴(中公新書)、鬼頭宏:日本二千年の人口史(PHP研究所)を中心にふり返ってみる。

 まずわが国に流行したのは天然痘であったと考えられる。立川によると「四〜五世紀は日朝の交流はきわめて活発であった。彼らの往来をとおして、当然疫病も活発に交流したに違いない。その外来疫病のなかでおそらく主流を演じたのは痘瘡(天然痘)であり、それは仏教伝来と前後して流行状態をつくったのでる。」その後天平七〜九年(735〜737)に痘瘡の大流行が起こり、当時権力の座にあった藤原氏の要人も次々と倒れた。このほかにも腸チフス、マラリア、赤痢と思われるものがすでに見られている。この頃の平均寿命について鬼頭は、八世紀の戸籍断簡の中から、比較的信頼度の高い美濃国(702年)について年令階層別人口構成を調べ、それは二十世紀後半の発展途上国の水準に似ていると推定している。また乳幼児の脱漏が大きかったとして、出生時平均余命は20才を超えたとは考えられないとしている。

 ヨーロッパでは十四世紀に疫病の大流行があって、ことに黒死病(ペスト)はヨーロッパ大陸をおおい、流行地では住民の二分の一から三分の一が死亡した。わが国では幸い黒死病はなかったものの飢餓に疫病が追い打ちをかける形で多くの人々が死亡した。平安末期の乱、旱魃による養和飢饉(1181年)では鴨長明の「方丈記」の一節によると、飢えと病に命尽きた屍骸が道路に散乱しているのを、仁和寺の隆曉法印が屍骸を見るごとに額に阿字を書いて、四、五両月に数え、頭はすべてで42,300余りあったという。その300年後の寛正飢饉(1406)では、「洛北の一僧が木片の卒塔婆84,000をつくり、死骸に一つ一つ置いていったところ二ヶ月で残り2,000になった」と記されている。これらを当時の京の人口から推定すると三人の一人の死亡率になりヨーロッパの黒死病のそれに相当する。

 この頃の日本人の平均寿命がいくらであったかは立川も記していないが、江戸時代になると宗門改帳を頼りに町村単位の平均余命を知ることが出来る(鬼頭)。これによると1600年頃の寿命はよくてもせいぜい30才程度であった。

 最近立川昭二の「江戸 病草紙」が文庫本(ちくま学芸文庫、1998)で出たので、その最後にある江戸時代の寿命の話を紹介する。速水融は信州諏訪地方の宗門改めの人別帳をもとに、2才児の平均余命を求めている。それによると、寛文11(1671)年から享保10(1725)年のそれは男36.8才、女29.0才、享保11(1726)年から安永4(1775)年になると、男42.7才、女44.0才である。即ち乳幼児死亡を除くと人生50年に近づいている。また立川は歴史上の人物について1964年以前の500年の平均死亡年齢計算している。戦国時代:60.4、江戸時代前期:67.7、江戸時代中期:67.6、江戸時代後期:65.2、明治大正時代60.6、昭和時代:72.0となり、若い死亡率の高い時期を過ぎると結構長生きをしていたことが分かる。  

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