2000.8.1

 

  21. 新しい厄年観
 

 

 今まで述べてきたように、老化学の現状では皆様におすすめ出来るのは科学的養生訓と言うべきものの域を出ない。しかし残念ながら科学者が集まって近代養生訓をまとめあげようという機会も機運もない。癌予防については盛んなアメリカでも老化についてはまだアカデミーの予防の手引きにようなものはだされていない。そこでここでは出来るだけ視野をひろげて私なりの養生訓をまとめてみたい。その第一はみんな自分の年令は知っているが生物学的な年令を知らないということである。それが昔から言う厄年につながるのである。

 今まで何度も述べて来たように年をとると程度の差はあれ殆どすべての機能が低下する。ところが人々の記憶には若い時の能力のそれがそのまま残っている。私にもこんな思い出がある。もう30年近く前のことであるが、日曜日などは自宅のある山科から東山越えに歩いて円山公園のあたりに出、それから大学に一寸寄って帰るといったことをしていた。ある時一寸道を間違えたのか円山公園の東の方に入るところで道が途絶え一メートルばかりの崖の下に公園の道があるところへ出た。これ位のところは飛び降りれば何でもないと思ったが50過ぎの私は見事にコンクリートの道にころんで膝をすりむいてしまった。その時初めて自分の身体はもう昔のそれではないと気付いた。最近こういうのを心理学ではアフォーダンスの知覚* というのだそうである。道をさえぎるように柵がしてあるときに、それをまたいでくぐるか、またいで越すかの判断がうまく出来るかどうかが一つの測定法として提唱されている。

 昔から男の厄年は42才と言うが、25才から30才にかけてピークにあった自分の体力が、今もあると思って同じ調子で仕事をしていると、自分の思いと実際の体力とのひらきが40才過ぎには極めて大きくなり、そこで怪我をしたり病気をしたりということになる。これが厄年というものではなかろうか。従って自分の体力の衰えを無視していると何度もこのようなことが起こり、遂には再起不能になる。

 そこで己の現状をよく認識してそれに合った生活をしろというのが養生訓の第一になる。心理学でも先に述べたアフォーダンスの知覚の良い人は社会的な意味でも、情緒的にも幸福感が高いことを示している。ところが世間では健康診断といってかくれた病気をみつけることは一生懸命やってくれるが、広い意味での生理的能力を判定してくれるところは意外に少ない。歴年令が同じでも生理的能力は人によって大きく違うので、自分の生理的年令をよく知る必要がある。体力については最近多くの運動施設でその測定が行なわれるようになって来たが、体力以外にもいろんな能力について老化に伴う低下の程度をはかることが出来ればと望まれる。年と共に自分の能力にうまくペースを合わせて生活を調整しながら、その範囲で精一杯の活動をすることが出来れば、何よりであろう。

 

 * 詳しく知りたい人は次の本を見よ。
   正高信男著 「老いはこうしてつくられる」 中公新書

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