2004.2.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  9. あれから1年
 


 朝早く急に背中に激痛がはしり、緊急入院して下行大動脈剥離と診断された昨年の2月18日から丁度1年経ちました。これがもとでそれまでの「健康談義」では余りにも晴れがましいと、ささやかな「つぶやき」に変えたのです。そしてそのときにそれまでの活発な第二の人生から、静かに余生を送る第三の人生に移る決心をしたのでした。ではその一年後どのような生活を送っているのでしょうか。自己点検してみます。

 大動脈解離というのは大動脈の内膜に傷がついて一部が破れて血液が血管壁に流れこんで袋のようにふくらむのです。一応それは治まりましたが、老化した大動脈では何時また同じようなことが起こらないとは言えません。それを気にしながらそろそろと身体を使ってきて丁度1年たったのです。何となくほっと一息ついた気持です。

 大事なことはこの間に本当に第三の人生に切り替えられたか、それはどんなものかと言う事だと思います。じつはそれが中途半端なのです。少し気分がよいと何か新しいことをやってみたくなり、新しい計画を立ててしまいます。それに対して、「そんなことをして一体お前は何時まで生きているつもりだ」という声が一方では聞こえてくるのです。ある方が書かれた、「和魂洋才ならぬ文魂理才」と言う言葉に惚れ込んで、これを文理融合のシンボルにして、などと夢が膨らむわけです。こんなことで未だ私でも社会のお役に立てるのなら、とつい思ってしまいます。

 もう一方、人生を閉じる方では、かねてから希望されていたインドのがん治療に私達が開発したがん温熱治療装置を寄付する計画を立て、メーカーの協力を得て私費を出すことにして準備をはじめました。そのようなことで遺産のことや葬儀のことなど調べていたら、ある本で、「葬儀をしない葬儀」という言葉を読んで、上には上が居るのもだと感心してしまいました。静かに消えていくためにどんな形で葬儀をしてもらえば、と考えていたのですが。

 このように分裂気味のところに、もう一つ今まで気が付かなかった老夫婦の問題が生じてきました。我が家は永らく夫婦で仕事を分担し、私は自分の仕事(研究や交渉)の没頭し、家内は家計と日常生活(衣食住)を担当する、ということでやってきました。ところがこの家内の方の分担が年と共に、ことに私の急病以来彼女にとって重荷になってきたのです。そこで私は外の仕事を減らした分の一部を家内の分の手伝いに回さなければならなくなりました。友人に聞いても多かれすくなかれ、この種の問題は避けて通れないようで、仕事が趣味で一生それで済ますと言うわけにはいかないということです。これは今までの養生訓には余り書かれていない、高齢社会ではじめて遭遇するようになった問題なのでしょう。しかしこれを余り言うと愚痴になりかねませんので、何か皆さんのお役に立ちそうなことがあったら、ここに書くようにしようと思います。

 どうやらこの一年なかなかうまく第三の人生へ滑り込めなかったようです。これからその方向でもう少し頑張ってみますので、よろしく。

参考:
「文魂理才」:
桜井芳雄著 考える細胞ニューロン 講談社選書メチエ241 2002年5月発行
「葬儀をしない葬儀」:
松島如戒著 死ぬ前に決めておくこと 岩波アクテイブ新書20 2002年3月発行 30頁

 

 
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