2007.8.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  51. 四季の移り替わり
 

 

 2 年ほど前から出たり入ったりしていた老人ホーム(京都ヴィラ)に今年から私だけ住み込むことにしました。鉄筋 3 階建ての 3 階で、冬は暖房、夏は冷房が全館完備ということで、最近とくに寒がりになった私には是非必要と考えたのです。正月から住み込んで、3 月になって気候が良くなると家内が山科の家が気になるということで、家の方に帰ってしまいました。そこで私も時々の週末には山科の家に1、2 泊して家内を助けています。

 さてここからが本論です。この老人ホームでは、冬が済むと次はいきなり夏のようにとたんに毎日暑くなってしまいました。同じ階の方も 5 月でも暑い暑いと言っておられます。そういえばビルの中にある私のオフィスでも、いつもワイシャツ一枚で、ただ冬はその上にカーデガンを一枚羽織るだけです。要するに近代の生活は冬と夏の 2 季しかない、ということに初めて気がついたのです。では地球温暖化で、そうなったのかと思いましたが、5 月に山科の木造の家に泊まると、きっちと布団をかぶらないと寒くて寝られません。ヴィラでは薄い布団を半分はねのけて寝ていましたのに。

 この話をある会合でしてみました。「最近多くの皆さんは鉄筋のマンションに住んでおられるが、四季が二季になったと感じませんか、」と尋ねてみたのです。何人かの方がこれに同意されたのに驚きました。でも後で若い方から「それでは先生は四季をどのような時に一番感じられるのですか」と尋ねられ、とっさには答えられず、今それへの回答の積もりでこれを書いています。反対にこんな質問が若い方から出ると言うことは、今の近代生活をしている若い人には四季の変化などというのは、あまり問題にしていないのではないか、とも考えられます。冬のスキー、夏の海水浴かサーフィンが出来れば十分ということでしょうか。だからこれから私が話す四季の感想が意外に新鮮に感じられるかもしれません。

 私たちには四季の変化は生活そのものに密着していました。寝具一つをとってみてもそうではありませんか。冬には冬布団、春には春布団、夏には夏蒲団か子供には腹巻をして、7、8 月には蚊帳を吊らねばなりません。着る物も同様です。昔の学生には制服があって 6 月に冬服から夏服に、10 月には一斉に反対に変えたものです。私の洋服(背広)にも冬、合い、夏の3 種があります。オーバーにも冬と合いがあります。京都の旧家では、襖や障子も、夏になるとすだれのついたものに変えたものです。

 私の山科の家でも、周りにはまだ森や田んぼがあり、春が近づくとうぐいすの鳴き声がだんだんと上手になってきます。5 月のある晩から急に蛙のこえがやかましくなります。これは裏の田んぼに水がはられたからです。7 月のある朝に突然にぎやかな蝉の声がして夏が来たことを知らされます。昼間もアブラゼミのこえがやかましくきこえます。8 月のお盆が済んだころから夕方にひぐらし(蝉の一種)の哀調のある声で、夏も終わりに近づいたことをしらされます。そして夜こおろぎや鈴虫の声が聞こえるようになると、「あー秋になったなー」と思うのでした。

 これらの声はほっておいても外から聞こえてきますが、もちろん外に出て歩けば、季節の花が目を喜ばせてくれるでしょう。でも私にとってはみな昔の思い出話です。蝉が鳴いているのか、自分の耳鳴りなのか、近くの家内に聞いてみなければ分りません。腰の故障で、花を見る散歩を楽しむことも難しくなってしまいました。それでもこうして尋ねられると、思い出は沢山あって、ぼんやりと頭の中で蝉の声や、鳥の声を楽しんでいます。この京都ヴィラでも室内では二季しかないと言いましたが、京都の北山のはずれにあり谷あいから京都の街の明かりが見える山の中腹にあるこのヴィラでは春の桜、秋の紅葉は見事なものです。前の庭にはときどき鹿の親子連れがあらわれます。

 しかし、私の四季の感想を尋ねられた若い世代の人たちには、このような四季の楽しみはないのでしょうか。世界的に見てもどこにも四季があるわけではありません。四季の変化を楽しむというのは我々日本人に与えられた特権かもしれませんね。ご質問頂いた若い世代の感想を伺いたいものです。

 

 

 
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