2007.3.1 |
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菅 原 努 |
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46. 風邪を引いて考えた | ||||
どうも私には2月は誕生日があって一つ歳をとるほかに、よく病気をするやっかいな季節のようです。数年前の大動脈解離も、昨年の腹部大動脈瘤の発見も、もっと遡ればもう10年近く前の狭心症発作から入院したのもみな2月でした。今年は無事に済むかと思っていたら、10日の夜入浴後寝間着のままでしばらくテレビを見ていたのが原因か、翌11日朝起きると少しのどの調子がおかしいのです。でも其の日は日曜日ですが奈良である癌治療増感研究協会のシンポジュウムに顔を出すつもりにしていましたので、8時のバスで出かけました。午後も途中で引き揚げて早目に帰ったのです。月曜は振替休日で一日休みました。でも火曜日になってものどの調子はもう一つよくありません。朝事務所に着いて其の話をしたら秘書の森田さんが「先生、のどあめでも買って来ましょうか」と言ってくれました。そうだ永らく風邪をひいたことがなかったので、「のどあめ」などと言う事を忘れていました。次の水曜日はオフィスは休みにしているので、一日休養を取りました。木曜日は来客もなく無事でした。でも金曜日には電話が掛かったり、来客が次々とあったりで話すことが多かったらとうとう声が出なくなってしまいました。 翌日の一週間目の土曜日から熱が出て本格的な風邪になりました。熱は38℃まででしたが、それがなかなか下がりません。そこで思い出したのが3、40年前の出来事です。当時京大医学部で仕事をしていましたが、よく通路で私が卒業するときの医学部長であった解剖学の舟岡省吾名誉教授が秘書さんと一緒に解剖学教室にある名誉教授室に通われているのにお会いしました。其の時の会話が縁で、先生にも私がお世話していた老化研究の仲間に入って頂いたのです。秋の研究会の会合が長良川のほとりであり、先生もそれに元気よく参加してくださいました。ところがそれから一週間ほど後に,先生の訃報を聞くことになってしまったのです。先生は我々の研究会に参加してから風邪をひかれ、それが肺炎になって、そのまま亡くなられたのです。84歳でした。84歳で現役の我々と一緒に元気に活躍しておられる先生は私達の理想の姿でした。それを私の不注意のために、寒い中をお連れして取り返しの着かないことをしてしまったのです。これは今でも私のこころを痛めていることのひとつですが、それを思い出すと「今度は私の番だ。この風邪が私の命取りになるかも知れない」と考えるようになるのです。そうだこの「八十路のつぶやき」にも一生の思い出を書いたからこれで思い残すことはない、もう十分に生きさせてもらったと感謝しよう、など夢うつつに考えていました。 でもどうやら私には未だ幾分かの回復力が残っていたようです。20日(火)午後から予定していた放射線リスク検討会の会合におそるおそる顔を出しました。そして夜の懇親会にも一応出席し、翌日も午前の会合に出席することが出来ました。そうして何時の間にかもとの毎日に戻ることが出来たのです。やっと元気を回復してかねて懸案であった日本リスク研究学会の広報誌第一号への「リスク放談」の原稿を仕上げて送ったのが23日(金)のことでした。 皆さんはきっと風邪くらいで何を騒いでいるのだ、と笑われるでしょう。でも自分の親、兄弟のなかで初めて86歳まで生きている、と思うと毎日が冷や冷やものなのです。振り返って今生活している老人ホームには、私より年長で元気な方が沢山居られます。ここでは毎日が冷や冷やものなどとは、とても言えません。でもともかくお蔭様で何とか元気を取り戻しました。心の中で舟岡先生にお詫びしながら、もうしばらくこの「八十路のつぶやき」を続けさせて頂きます。どうぞよろしく。
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