2006.5.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  36. あれから50年
 

 

 私がそれまでの三重県立大学の内科医を諦めて国立遺伝学研究所に転じて放射線生物研究を始めたのは丁度50年まえの35歳のときでした。今急にこんな事を思い出したのは4月号の学術月報(学術振興会の機関紙)の特集:幹細胞研究の最前線に出会ったからです。そこに「北村幸彦:特集にあたって−幹細胞研究の今昔−」という記事があって、脾コロニーの写真が載っていました。それにはマウスの脾臓に数個の結節が写っていて、“致死量のX線を照射したマウスの静脈内に5×104個の骨髄細胞を注射して10日後、脾臓に形成されたコロニー、各々の結節が1個の血液幹細胞から生じたもので、赤血球、白血球、血小板に分化しつつある細胞を含む”と説明がついています。これは私にはまことに懐かしいもので、これが発表された1961年、丁度京大に移ってきた私は早速この手法を取り入れたものです。この記事には、これを開発した二人の研究者TillとMcCullochは2005年になってアメリカのノーベル賞ともいうべきラスカー賞をもらった、とありました。多分幹細胞ということが注目されるようになって古い仕事が日の目を見たということでしょう。私はかねてから、幹細胞などと最近騒いでいるがそれは昔に放射線の方で使っていたものだ、と言っていたのです。

 でもこれでは45年前で50年前にはなりません。そうです、これにはもう一つ前があるのです。それは1956年のPuckとMarcusの彼らが開発した培養法によるコロニー形成という仕方で、細胞の放射線感受性を調べたものです。これを読んだ私は、自分の始める新しい研究室ではぜひこの方法を採用するべきだと考え、当時培養のメッカだった大阪大学の吉川研から大学院生の堀川正克君を迎えたのでした。残念ながらこの方法を実現するのにはその後何年もかかりましたが、試験管内と生体系とを比較しながら研究をすすめるという方針はこの両者で確立することが出来たのです。堀川君はその後私と一緒に放射線医学総合研究所、京大と動き、35歳の若さで金沢大学教授になり放射線生物学の発展に尽くしてくれましたが、若くした膵臓がんのために亡くなりました。彼と一緒に編集した放射線細胞生物学(朝倉書店、1968)がその思い出です。

 当時日本人の研究で光っていたのは何と言ってもTerasimaとTolmackの細胞分裂周期の間での放射線感受性の変動を示す論文(1961)でした。これがきっかけで細胞分裂の機構研究が始まったのです。この寺島東洋三さんは後に放射線医学総合研究所所長、原子力安全委員などを歴任され、引退後、いまでは故郷の千葉県で老人施設の医者として社会奉仕をしておられるそうです。

 いや、とんだ思い出話になってしまいましたが、どうも最近の研究者は研究の背景にある歴史を知らなさ過ぎる、と嘆いているのはどうやら私だけではないようです。丁度数日前に送られてきたNPO法人放射線教育フォーラムの機関紙「放射線教育」の最新号も「特集:放射線・原子力の歴史的点描」になっていました。どうもここでも温故知新の大事さを訴えたいようでした。

 

 

 
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