2005.2.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  21. 安全と恐怖
 



 昨年から通産省の安全基盤研究を(財)体質研究会が行なうことになり、私にも何か手伝ってほしいという依頼がありました。財団の計画としては放射線に関することが中心なのですが、私としては、少し周辺のことを考えましょうということで、主に新聞など出版物でリスクや安全ということがどのように取り扱われているかを調べてみることにしました。そのなかで、リスクについては記事の内容と頻度を調べて報告書を作りました。リスクという言葉が余りにもいろいろと違った意味に使われていることが分りましたが、それはここでは話題からはずしておきます。

 ここで取り上げたい問題は安全の方です。しばしば「安全と安心」と言う言葉が出てきました。それに気をつけて見ていると何も新聞だけではなく、京都府の広報にも、最後には政府の研究重点項目にも「安全と安心を目指して」とか「安心と安全のために」とか安全と安心とは殆ど常に組になって出て来ます。私が何故これを問題にするかは、次のような経緯があるからです。

 私がある時、放射線リスクの研究会で「安心のためにもっと安全に力を入れなければならないでしょう」と言ったら、其処に居た社会心理学の大家から、「菅原さんそれは間違ってますよ、安心したら安全は保てないのですよ。不安や恐怖ということがあるからこそ、人々は警戒して危険をさけ、そこで初めて安全が得られるのです。」と叱られました。私は少し呆然として「はあ」と分ったような分らないような生返事をしてその場は終わりましたが、どうもよく分らないということで、もっと若い社会心理学者にメイルで質問をしてみました。その懇切丁寧な説明で初めて納得がいったのですが、安全と安心とは両立できないということです。これはこれからの社会で安全を考えていく上で極めて大切な事だと信じるようになりました。

 例えで考えてみましょう。「痛い」というのは不愉快な感覚です。机の角に脛をぶつけて「アー痛い」と感じるからぶつけないようの気をつけるので、痛さを感じなければ身体中傷だらけになってしまうでしょう。痛みを感じないうちに病気がどんどん進行してしまうので怖いのは「がん」です。これが虫垂炎(いわゆる盲腸炎)のように急にお腹が痛み出したら誰でもお医者さんのところにとんでいくでしょう。でも何時までも続く頭痛や腰痛などは本当に苦痛です。だから同じ痛みもその功罪は時と場合によります。不安や恐怖も同じことです。

 今、食の安全を中心に政府ではリスク分析という手法を使って行こうとしています。これは新聞にもよく書かれています。リスク分析では、世の中にゼロリスクはあり得ない、という前提で出来るだけ低いリスクに、または許容出来るリスクのレベルで規制していこう、としています。リスクはある、だから気を許して安心してはならない、十分慎重に警戒することで安全を保とう、というのです。安全と安心とは相性が悪いのです。でも物を作る側の人はこう言います。「私達は安全に十分配慮してこれを作りました。だから安心してください」と。沢山出て来る「安全と安心」もこの仲間です。ここには住民や消費者は存在しません。ただ「貴方は私達を信用しなさい」だけです。今病院でもインフォームド・コンセント(説明と納得)で初めて治療が始まるではありませんか。それにこんなに一方的で良いのでしょうか。

 そうしたらスマトラ沖大地震で初めてホンネが出てきました。1月13日の朝刊(毎日新聞京都版)に「警鐘:巨大地震の時代」という特集記事が出ました。

 その見出し文字を追って見ます。第一頁:津波対策:「まず逃げる」浸透せず。 第二頁:集落丸呑みする津波 死を防ぐのは「恐怖」

 そうです、安全と安心ではなく。安全は恐怖(不安)によって初めて確保できることを、新聞記者もこの地震にあって初めて実感したようです。このようなことは、永年の社会心理学の研究を通じて専門家は早くから認めていました。実は私もそれを研究会で指摘されて始めて気がついたのです。だから今からでも遅くはありません。大事なことは、上に挙げた「安全と安心」についての諸計画はすべてこの研究成果を無視しています。我が国は一方では科学技術立国などと言いながら、この学問無視はどうしたことでしょうか。長年科学研究に携ってきた人間として、この点をよく考えて頂きたいというのが、私の願いです。

 

 

 
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