2004.10.1
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菅 原 努
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17. どうして自分の専門を決めたのか? | ||||
今から考えると丁度私が京大医学部医学科を卒業した昭和19年9月後間もなく放射線科が出来ているのですが、私にはそんなことは全く頭にありませんでした。戦時中のことであり、卒業前に内科(循環器を主とする第三内科)で実習して、卒業と同時に短期現役軍医となりました。内地の航空隊に勤務していた私は昭和20年11月に除隊になり、もとの内科に戻りました。そのうちに同じ内科の先輩たちが続々と軍隊から帰ってきて、病棟はもとより、研究室も一杯になりました。患者を一人か二人を受け持ち、あとは図書室にでもこもって本を読むぐらいしかすることはありません。他方食糧事情も自分の懐具合も悪く、下宿代にも事欠くようになってしまったのです。 そんなある日、医局の掲示板で「引上げ船の船医募集」というのを見つけました。金に困っていた私は文句なしにそれに飛びつきました。そしてこれが人生の分かれ目になったと言えば、少し大げさでしょうか。3月ほど船医をして幾らかお金が出来、丁度一つアルバイトも出来るようになり、生活に少し余裕ができました。そうすると満員の医局で時間をつぶすならもう一度好きだった物理を本格的に勉強しようと考えるようになったのです。こうして昭和22年4月に二度目の大学生と新婚生活を同時に始めたのです。昼は大学、夜は医者のアルバイトという毎日でした。幸いというかどうか、最初の住まいが宝塚で電車の終点ですから、ゆっくりと座って医学雑誌を読むのが唯一の医学の勉強でした。 6年も若いほかの学生さんと一緒に物理の講義を聞きながら、なんって頭が悪くなったのだろうと自分で嘆きました。その証拠にというか、医学部の時には受けたことがなかった追試を何度か受けることになりました。3年目には卒業研究がありますが、その頃にはもうくたくたで、1月に三重県立医科大学への就職が決まると、卒業研究の方は殆ど一緒に組んだ同級生に頼んで病院での勤務に精を出さざるを得なかったのです。兎に角アルバイトでは休めばそれだけ収入が減りますし、身体はえらいし、定収入の有難さがそのときほど身にしみて感じられたことはありません。勿論医学を学んでその後物理を学んだのは当時出来始めていた生物物理などをやりたかったのですが、昭和25年当時日本はまだまだ不景気でそんな仕事はありません。やむを得ずもとの内科医に戻ったというのが正直なところです。 こんなことを話していると何時になっても放射線の話は出てきませんね。ところがこの就職した病院には放射線科はありますが、技師はいますが専門の医師はだれも居ません。院長から貴方は物理を出たのだから放射線が分かるでしょうと、本来は内科ですが放射線も兼務することになったのです。ところがここの技師さん達は大変仕事に熱心で研究心も旺盛で、丁度そのころ彼らの運動が実って技師国家試験が行われることになったのです。早速そのための講習会の講師を依頼されました。そこで大学で使った原子物理の教科書などを引き出して教材をつくりました。何か出来る研究をしようと技師さん達とX線撮影に関する簡単な実験をして学会の地方会などに発表することにしました。 これが二人の方の目に止まりました。一つは三重県の前の医師会長で近くの私立病院長が、私の勉強のためにと、病院にない放射線の専門雑誌を購入してくれました。これは私には全くの新しい分野である放射線の知識の元になりました。もう一人は私の学会発表を聞いた某医療機器メーカーの部長でした。ある日名古屋の料亭に呼び出された私に医療用X線装置作成の指導を依頼されたのです。じつはこれが私の企業との付き合いの始まりで、今思えばその経験がこのような時代になって生かされるようになったのです。この専門雑誌から診断の技術のことだけでなく、生物や防護のことも学ぶことができました。 そうしているうちに昭和29年(1954年)有名な第五福竜丸事件が起こったのです。面白いことにこれから我が国は原子力の幕開けとなり、私のような者も物理の分かる医者として引っ張り出されて本格的に放射線生物学をやるようになったのです。数年前に出来ていた国立遺伝学研究所に変異遺伝部という放射線遺伝学を中心とする部が出来、わたしは昭和30年に内科医から生物学者に転向することになったのです。 今ではもう当然のことですが、大学で学んだ何々学にこだわることはないし、むしろ複数の学問をすることにはそれなりの意義あることを私の経験から主張しておきたいと思います。それでもときどき短い人生を欲張らずに初めから一つのことに集中した方が良かったのではないかと、悔やむこともなくはありません。そのことを特に二度目の大学に入った時と、遺伝学研究所に移ったときと二度経験したのです。ことにそのことを痛感したのは35歳になって遺伝学の勉強を始めたときでした。今でも家内が時々言うのです「あの頃遺伝学者は若くてもみんな威張っていたわね。それでも貴方は所員で唯一の医者だったからか、何かの時には頼りになると思ってか少しは遠慮していたわよ」と。
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