Books (環境と健康Vol.28
No. 1より)
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矢野久美子 著 ハンナ・アーレント |
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(株)中央公論新社 ¥ 820+税 |
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昨年、神田の岩波ホールで映画「ハンナ・アーレント」を見た。ユダヤ人のホロコーストに加担したアイヒマンが逃亡先のアルゼンチンで捕えられイスラエルで裁判にかけられる様子を傍聴したアーレントは、「エルサレムのアイヒマン−悪の陳腐さについての報告」と題する著書を世に問う。しかしユダヤ人を始め多くの知識人の激しい非難を受けることになる。実をいえば私は映画を見るまで哲学者アーレントの名前すら知らなかったが、学生たちの前で煙草を吸いながら講義をするアーレントの迫力に圧倒された。ただこの映画での不満は、哲学者ハイデガーを跪かせた典型的なユダヤ美人の彼女を、ナチ親衛隊のようなドイツ女性が演じたことであった。 アーレントに対する非難の原因は、悪行に加担するがナチの歯車の一つに過ぎなかったアイヒマンの卑小さに対する失望であり、一方ではユダヤ人の絶滅収容所送りに協力したユダヤ人社会に触れたことであった。しかしこの著書によると、彼女がユダヤ人として差別されて辿った運命と無縁ではない。 アーレントはリトアニアとポーランドに挟まれ現在ロシアの飛び地となっているケーニスベルクでギムナジウムまでの学生生活を送り、その後ドイツのマールブルク大学で哲学の師ハイデガーの求愛を受け彼の愛人となる。しかし不倫はハイデガーの妻の知るところとなり、ハイデルベルク大学に移りヤスパースの下で博士号を取得する。やがてヒットラー政権のナチに追われフランスに脱出後捕えられ、フランス敗戦の混乱期に収容所を脱出し、二度目の夫と共にマルセイユからアメリカへ逃れる。大戦後、ニューヨークを拠点にナチやソ連の全体主義を批判する書物など多くの著作と講演を行い、プリンストン大やコロンビア大の客員教授、そしてシカゴ大の教授を務める。その頃に先述のアイヒマン裁判を傍聴することになるが、その著書によって、親しいユダヤの友人の殆んどを失うことになる。しかし彼女は決して妥協しようとはせず、ヒットラー政権下でユダヤ人として差別されヨーロッパ全体から孤立させられた苛酷な体験から信念を貫く。 本書は波乱に富むハンナ・アーレントの伝記であるが、随所に彼女の主要な著書の内容が紹介されて、彼女の差別と戦う強靭な意志がよく伝わってくる。しかしアジアに住む我々にはヨーロッパ人の根強いユダヤ人への偏見や差別を理解することは難しい。アーレント夫妻が間もなくアメリカ国籍を取ったのはそのようなヨーロッパとの決別であったのかもしれない。彼女は原爆の非人間性や当時アメリカで吹き荒れたマッカーシズムも批判しているが、現在イスラエルで続くユダヤ人によるパレスチナ人に対する非人間的な行動をどのように批判するか知りたいところでもある。本庄 巌(編集委員)
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