2013.9.2
 
Editorial (環境と健康Vol.26 No. 3より)


倫理と職業


竹下 賢

 

 

 ここ十数年来、教育との関係で倫理の強化といったことが、強く意識されるようになってきている。安倍第 2 次内閣の発足と同時に、第1 次内閣時の教育再生会議の復活のかたちで、教育再生実行会議が設置された。そして、間もなくの 2013 年 2 月に、第 1 次提言が出されたが、その内容には 3 つあり、道徳の教科化といじめ対策の法制化、そして体罰根絶のガイドライン作成であった。これらの項目の収束するところは、法制化を含む倫理の強化だといえるが、このうち先行して実現したのが法制化で、いじめ防止推進対策法が 6 月の国会で成立した。

 この法律が早期に成立したのは、大津市での衝撃的ないじめ事件がきっかけとなって、その問題が一般化し社会問題化したからであり、こうした問題が学校の従来の枠組みでは解決できない深刻さにまで達していたからである。多くの学校現場で、何とか有効な対策を打たなければならないという声が上げられたことと思う。他方で、法案の審議過程で注目されたのが、今回の法案に盛り込まれた規定への批判である。それは、保護者が子供の規範意識の指導に努めること、また、いじめた子に出席停止処分を課しうると、定めた点に関してである。前者には家庭教育の自主性を損なうとされる、後者には厳罰化は事態の改善につながらない、との批判が出された。

 これらについてのやり取りなどののち、修正なしに法案は採決され、それはそれで重要な立法であったと思う。しかし同時に、前述の法案への批判を勘案した教育行政を行うことが、こうした立法とともに必要となろう。法律によって、たしかに一定の行為を禁止して抑圧することはできるが、その行為を自主的に止めさせることはできない。つまり、法律では規範意識を醸成することはできないのであって、厳罰化は改善にはならないといわれる所以である。家庭教育の自主性ということも、倫理教育の非強制性が大きい意味で含意しているところだと思う。

 ここで問題は、倫理教育が完全に自主性に委ねられるというなら、完全に個人のそれこそ自己決定の問題になってしまい、教育行政ですら関知すべきでないことになってしまう。すでに、安倍第 1 次内閣のもとで 2006 年に教育基本法と関連法が改正され、2011 年からは初等中等教育に「生きる力の育成」をめざす新学習指導要領が適用されている。その内容の一角に道徳教育の充実が組み込まれているが、上記の立場を取るなら、これに反対どころか以前からの教科化されていない道徳の時間にも反対するということになる。

 しかし一般には、「現状の社会においてこの立場を貫くことは難しい、だが、問題は教えられる道徳の内容にある」と考えられるのが普通であろう。ただその場合、内容については各人各様の答えが返ってくると思う。それでもここで、現状がより進行していることを知っておくことは重要である。初等中等の学校教育だけでなく、すでに高等教育の専門職業教育においても、倫理教育が制度上の教育課程の中に組み込まれている。そしてその分野では、倫理教育の必要性に関しての根本的な論議がなされていて、そこで示されているひとつの見解は興味深く、しかもそれは専門職業一般に当てはまるのである。

 ここでいう専門職業は、一般職業から区別されるいわゆる高度専門職業人のもつ職業であり、伝統的には医者と弁護士が挙げられる。弁護士など法曹は今日、法科大学院で養成されるが、その他の会計士や臨床心理士なども、この種の専門職大学院で教育されていて、これに含まれる。現代社会では、社会の複雑化に応じてこのような専門職業が数多く形成され、理工系の大学院の卒業生は大学での教育を生かして就職するとき、すべてこの種の職業に従事することになろう。

 この専門職業は英語ではプロフェッショナル(professional)であり、一般職業であるオキュペイション(occupation)から区別されるが、その特徴が語源的にも明らかにされている。もともとプロフェスというのは信仰告白という宗教的な意味合いをもっていて、さらに、宗教的な目的に生涯を捧げると公言して修道院に入ることをも意味していた。この語源が世俗化されて、公共の目的のために献身的に活動する職業がプロフェッショナルと呼ばれるようになる。そして、いまや専門職業に従事する者は、高度な技術とともに学識をも備える必要があり、また、その職業が社会生活に不可欠であるゆえに独占的となってしまうだけに、依頼人に対して強い社会的責任を負うのだとされる。

 このような見解には説得力があり、それが意味するのは、個人に由来する倫理とは別に、社会が求める倫理が存在するということである。このように社会倫理を考えるとすれば、それは何も高度専門職業人にのみ限られるわけではなく、より厳格さが弱まるとはいえ、一般の職業人にも通用しているといえる。たとえば、商業上の取引をする人は、取引商品の内容を相手方に正しく伝えなければならないし、農業者は日照りで困ろうとも、無断で隣の田から水を引いてきてはならない。

 このように広い意味合いをもつ社会倫理を改めて考えてみると、社会秩序は職業だけではなく、さまざまな役割に対応する倫理によって支えられているといえる。父親や母親という役割に対応した家族関係にも当てはまる倫理があるが、何もそれはたとえば儒教道徳として固定化されたものではないし、絶対的なものとして強制されるべきものでもない。逆に広く国民一般に当てはまるような社会倫理もあり、通常それらは社会常識とかマナーとかと呼ばれている。そして、この広く一般的な社会倫理の一角に、前述で話題にした学校教育における道徳教育も属することになろう。

 このように考えてくると、やはり前述で言及した、社会倫理の必要性は分かるがその内容が問題だ、という壁にぶつかる。さしあたり、この内容は超越的に確証されるものではなく、社会生活の現実の中に働いている倫理のうちに求められることになろう。しかし、議論が起きるのは、そうした社会倫理が機能していない場合であり、そこでは、機能の回復のために新たな内容を盛り込まねばならない。そして、そのための絶対的規準がない以上、それが社会問題化している場合はとくに、国民的な議論を喚起するなかで内容についての議論を通じて確定するしかない。しかも、その際に留意すべきなのは、倫理は強制からは生まれないということであり、強制を本質とする法に頼りすぎると倫理は弱まり、社会の秩序形成の力も結局は弱まるということである。

 ともあれ、本誌でも取り上げた一昨年の福島原子力発電所の事故もまた、「倫理と職業」という問題を投げかけている。倫理教育の意義に関する前述の見解は、工学倫理における議論において提示されたのだが、この事故では倫理教育一般の問題ではなく、一定の教育内容が問われていると考えられる。この点については、来年早々のいのちの科学フォーラムで取り上げることにしたい。


関西大学教授(法哲学・環境法思想)