Books (環境と健康Vol.25
No. 3より)
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小笠原道雄 他 2 名 編著 道徳教育の可能性−徳は教えられるか− |
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(株)福村出版 ¥ 2,800+税 |
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本書は、序章からいきなり「徳は教えられるか」との青年メノンの問いかけに対して、「徳は知識であるので教えられるが、現実には教える教師が存在しない」と応じる老人ソクラテスの「教育のパラドックス」から始まっている。本文は 5 部からなり、近代の道徳教育思想、現代における道徳教育の問題、学校教育での具体的取り組み、道徳教育の歴史と展望などに分けられる。 本来人間は社会的存在である以上、当然「他者と共存するための共通感覚としての道徳」が求められている。本書で取り上げられている J. J. ルソー(1712−1778)の教育論によれば「われわれはいわば2 回生まれる。1 回目はこの世に存在するために、2 回目は生きるために」というように、彼は「子どもの発見者」であると同時に「青年の発見者」でもあった。続いて「子どもたちの中に潜む価値意識を呼び覚ます」ものとしての J. H. ペスタロッチ(1746−1827)の道徳教育が取り上げられている。次に登場するのが、J. Fr. ヘルバルト(1776−1841)の「何人も、自分に根源的な正義があるなどと想像してはならない」の言葉であって、「検索はしたけれど、思索をしていない」インターネット社会への警告と考えてよい。 現代では、産業社会やインターネット社会が生み出す情報によって操作され、個人に対して過剰に要求される二次的道徳が問題となっている。このような高度情報社会における情報モラル教育の課題として、対人コミュニケーションと間接的コミュニケーションの双方の質を高める教育環境が取り上げられている。極端な例として、かっての国民学校教育のような他律的道徳観を許してはならない。 道徳教育とは、共に生きる知恵としてのルールとマナーの教育だけではなく、自律と他律の間にある社会人としての自覚を呼び覚ますことである。そのためには、当然現代的な知の共通基盤として文理の知恵が求められる。道徳教育には、特別の教師はいないが、そのための場としての家庭とそれを補完する保育所や幼稚園などがあり、子ども間の「遊び」を通じて体得されていく。その後の学校教育の道徳の時間にも、生命尊重をテーマとした実践的討議を通じたコミュニケーション能力育成の場が期待されている。本書では、合意形成に向けた話し合いの意義が強調されているが、問題は「社会的存在としての人間の生き方」であるので、「多様な在り方」を認め合う場であってもよいのではなかろうか。その意味では、「道徳教育のパラドックス」は健在である。 山岸秀夫(編集委員)
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