2011.9.1
 
Books (環境と健康Vol.24 No. 3より)

 

後藤 伸 他 2 名 著

熊(くま)楠(ぐす)の森−神島(かしま)


農山漁村文化協会 ¥2,000+税
2011 年 2 月 25 日発行 ISBN978-4-540-10164-9

 

 

 神島は紀州田辺湾に浮かぶ無人島で、多くの貴重な南方型植物の北限を示す天然林で覆われた島であり、漁民を守る神の島で、魚つき林でもあった。しかし 1906 年(明治 39 年)に国家神道の権威を高めるために、勅令「神社合祀令」が発布され、1 村 1 社に限定され、合祀後の鎮守の森に伐採の危機が迫った。この時に決然と「神社合祀反対運動」に立ち上がったのが紀州の博物学者(菌類学)の南みなかた方熊くま楠ぐすであり、民俗学を通じて親交のあった当時の内閣法制局参事官の柳田國男の賛同を得て、1918 年(大正 7 年)に貴族院で「神社合祀不可」の決議を勝ち取っている。しかし既に神社の合祀が進行し、和歌山県では 3,700 社から 600 社に、三重県では 5,547 社から 942 社へと減少した。その間、熊楠らの努力により神島は 1912 年(明治 45 年)に県の保安林指定を受けたが、その将来を憂えて、熊楠は国の天然記念物の指定運動を開始し、神島の全島植物分布図を作成して、1934 年(昭和 9 年)に申請し、その翌年国の史跡名勝天然記念物に指定された。「生物は互いにつながっており、目に見えない部分で全生命が結ばれている」との熊楠の信条は、自然保護運動の先駆けでもあった。また独創性を評価する世界のトップ学術誌Nature 発表論文は約50 編でこれまでの日本記録である。熊楠は東大中退後、渡米、渡英、大英博物館東洋調査部員を務めた国際人であったが、「肩書がなくては己が何者かもわからんような阿呆どもの仲間になることはない」「世界に不要のものなし」との信念で、紀州田辺市を本拠として、1929 年田辺湾に寄港した戦艦の長門艦上で昭和天皇に御進講したりして、1941 年(昭和 16 年)の逝去まで、地方郷土誌家に甘んじて活躍した。

 本書の前段としての熊楠の紹介が長くなったが、本書は熊楠の精神を引き継いだ 3 人の郷土誌家による神島の天然林保存のその後の記録である。熊楠の神島全島植物分布図作成の半世紀後に、かれらはその「現代版」を完成し、以後毎年調査を行ってこの短期間に原始の森に大きな変化が生じていることを記している。それでは一体、地震と台風銀座で名高い紀伊半島の海岸線に発達してきた大森林の衰退は何が原因だろうか。おそらく戦後高度経済成長政策によって始まった島の周辺陸地での観光開発の影響が大きいと断じている。しかし天然林の衰退を決定づけたものは、1960 年代から始まった田辺湾内の大規模な養殖漁業で、その流出飼料が格好の餌として海鳥類の大集団を招来し、その結果熊楠が保全に命を懸けた神島の天然林は格好のねぐらとされ、繁殖の場となったのである。その糞害により、多くの樹木は枯死し、土とともに海に流失した。国の天然記念物に指定され、農薬散布や無断上陸を禁止して保全してきた神島の森がウやサギなどの繁殖によって荒廃していくのは皮肉なことである。その後ドブネズミも繁殖し、それを追ってキツネやタヌキも島に上陸してきた。その根本的解決法は、養殖漁場の撤廃か移動であるが、日本の産業構造にもかかわる重大な問題であり、現在の原子炉のエネルギー問題に先行した深刻な事態であった。戦後数々の地震や台風にも耐えた原生林も周辺部の環境開発によって荒廃し、最後に天然林を壊滅させたものは 1998 年 9 月22 日に田辺湾を通過した台風 9807 号であった。

 「自然環境の修復の時代」と言われる今後の保全に対して「点ではなく面の保全」の重要性を示唆する結果となった。その教訓がその後の「熊野古道」の広域世界遺産登録に引き継がれている。田辺湾に浮かぶもう一つの大きな無人島は、神島の西側にある畠島で、ここは原生林ではなく岩場が発達した貴重な海浜生物の宝庫であり、一時リゾート開発の標的とされたが、粘り強い住民運動の結果として、1968 年に国費で買い上げられて、京都大学瀬戸臨界実験所畠島実験地となった。しかしその今後の保全も単独では不可能で、周辺地域の開発と切り離しては考えられない。

山岸秀夫(編集委員)