2011.6.2
 
Books (環境と健康Vol.24 No. 2より)

 

 横川善正 著

ホスピスが美術館になる日
−ケアの時代とアートの未来−


(株)ミネルヴァ書房 ¥2,200+税
2010 年11 月20 日発行 ISBN 978-4-623-05732-0

 

 

 本書は心の癒される「生と死」の間(あわい)の物語である。著者は「死は人間が自然から借りていた生命の返還を求められる、いわばリースの終了期限であり、同様に、新しい生命の誕生の瞬間を求められる時である」とみなしている。著者の勤務先である美術大学の敷地はかつて「人生の生き直し」の場所である刑務所であり、そこでアーティストの卵が育っている。道路を隔てて向こうに総合大学の附属病院と看護学校が隣接し、そこでは何度も「生命の返還」を求めている患者がおり、その「死からの生還」を助ける医師や看護士の卵が育っている。章立ては、序章「テルミヌスの庭はどこに」に引き続き、第1 章「ターミナル・アートの時代」、第2 章「医術はかつて美術であった」、第3 章「開かれる〈終の住処〉」、第4 章「突き抜けるアート」、第5 章「もうひとりのアーティスト、もうひとつのアート」、終章「世も末だというまえに」からなっている。

 現代医学の進歩は多くの生命を救い、長寿社会を実現したが、かつての団塊の世代が高齢化に向かう今日、高度経済成長時代のもの造りの「生き甲斐」から、心の中で何かを生み出し、人のつながりに価値を見出す「死に甲斐」へのパラダイムの転換が迫られている。高齢化団塊世代が、20 世紀の後半にせっかく手にした高度先端技術も、あっという間のパソコンソフトの買い替えやパーツの交換を余儀なくされ、新しい情報化時代に取り残されたものにとっては、部品の交換は自らの頭や手の交換そのものであり、遺伝子組み換えの比ではない。しかも団塊の世代が「死に盛り」を迎える頃には現在の病院の半分がホスピスになり、すべての人は上中下の区別のない公平な「弱者」の間柄となる。弱者には食糧と医薬品(医療)の他に、もうひとつの必需品としての「ケア」がある。そこでは、「見えるもの(生)とまだ見えないもの(死)とのあわい、はっきりと線引きできない両側の世界がつながっている」ことに関わるターミナル・アートが誕生する。そこで制作されるアートは必ずしも見える美術作品ではなく、人生という作品の仕上げであり、その作品を理解し、共鳴できる介添え役としてのアーティストが求められている。個々の人生の物語は多くの人に語り継がれ、数世代にわたって作品として鑑賞されるのである。ここに「ケア」と「アート」の出会いがあり、本書の題名が由来したものと思われる。

 第2 章では、「造形思考を目指すアートと同様、医の感性は目と手とこころで磨かれ、そして知力が働かなければいのちは救えない」との言葉に凝縮している。大学入試センター試験の高得点者が医学部に進学するのを助長する風潮の中で、著者は患者とのコミュニケーションが成り立たず、診察室や手術室で肝心の手も心も働かないケースが増大している現状を憂いている。第3 章では、「良医は辺境に」という英国の福祉の現状を紹介し、第4 章では「生のリース期間」の短縮された障害者が創造する密度の濃いアートに触れ、「ひとにはそれぞれにお役目がある」との身障者の祖母の言葉が紹介されている。第5 章では、全ての人が訪れる人生のターミナルを語っているが、バスや航空機と同様、ターミナルには到着と同時に必ず出発のサインがある。ホスピスは健康な体の回復ではなく、平穏なこころの恢復の場であり、宇宙や生命の基本元素の中に戻され、再生するものへの支度を整える場である。

 終章は、人生の自戒の言葉としての「メメント・モリ」(死を忘れるな)がいつの間にか「死を忘れろ」にメモリー変換され、生と死の線引きを医療計器に委ねる風潮に対する問題提起である。長寿社会では、長生きした分だけ「死に耐え」ねばならない。いわば本番直前のリハーサルの繰り返しであり、そこに生きる喜びを実感する場としてのアートがある。死を前にしても科学者は「神」という言葉を容易に使えない。科学は絶対的な本質に無限級数的に近づくものの、この変化する世界は永遠に解明できないと直感している。芸術家も人間業を超えた創作の中に「神」を引き入れることはない。もしそうしたら、ありのままの不完全な人間が見えなくなるからである。終わりを始まりへとつなぐ「アートを忘れない」ことが、来世を信ずる者にも、信じない者にも、限りある生を現世に得た人間の全てに約束された幸せをもたらすであろうと結んでいる。

山岸秀夫(編集委員)