2011.3.4
 
Books (環境と健康Vol.24 No. 1より)

 

村上陽一郎 著

人間にとって科学とは何か


(株)新潮社 \1,100+税
2010 年 6 月 25 日発行 ISBN978-4-10-603662-0 C0340

 

 

 本書は、その「あとがき」にもあるように、著者が語りおろした原稿からサイエンスライターが編集したものである。したがって著者の科学に対する熱意が読みやすい文章で連ねられている。本誌を発行している健康財団グループの「いのちの科学を語る」シリーズとほぼ同じ企画である。著者との 9 回のインタビューからなり、科学は決して「社会に役立つためにある」わけでなく、本来知識を追求する営みであり、知識を追求すること自体が人間という存在にとってかけがえもなく大事であることを一貫して主張している。そして科学の成果をその経済効果で判断しようとする「事業仕分け」の風潮に一矢を報いようとしている。

 自然科学は人間にとって共通の相手である自然を探求することであり、その成果は知的財産としての宝物であり、やがて世界全体の共有財産となって行くとの認識を示している。したがって「ものを考える」という原点では、自然科学も哲学と同じであり、宗教が人間にとって必要であるのと同様、自然科学も人間にとって必須であるとの論理を展開している。経済効果は別にして、文理を問わずどんな科学的知識も人間にとって有用であるとの見解である。

 本書の内容は大きく前半と後半に分けられ、前半では社会的営みとして定義される「近代自然科学」の誕生とその倫理を問い、後半では安全とリスクの「科学」を論じている。職業としての自然科学者の共同体が誕生したのは、近代産業の立ち上がり期であった 19 世紀後半のことであり、まだその歴史は短く、まだ 100 年余りである。知的活動としての純粋自然科学もやがてその科学技術の成果が産業界に革命をもたらし、殖産増強に役立つ工学、農学、医学を発展させ、人々に便宜を提供した。そのあげく、原子力や遺伝子操作技術の開発は、「科学的合理性」と「社会的合理性」に関する新しい倫理問題を提起した。自然科学の「合理性」はもともと人間の行動に関しては殆ど無力である。地球環境問題やエネルギー問題、ひいては臓器移植や再生医療をめぐる生命倫理を考えるには、それぞれの社会に固有の価値観を抜きにしては不可能である。

 ここで後半の話題となり、社会における意思決定が「科学」との関連で論じられている。そこでは「常識の中での賢慮」や「転ばぬ先の杖」という原則が通用しているが、著者は自然科学者の社会的責任は「科学リテラシー」(説明責任)を鍛えることであるとしている。例え原因と結果が決定論的構造となっている自然科学にも様々なパラメーターで惹き起こされる不確実性が問題となってきている。特に環境や医療分野では不確実性に満ちている現実を正直に社会に発信し、少しずつ「知識の進歩のための科学」に対する社会的合意の形成に向かうべき時代であると結んでいる。

 評者の見解では、科学的思考とは知識の断片を繋ぐシナリオの形成であろう。時代と共に断片の数が増え、複雑系に関してもシナリオは限りなく精密になって行く。しかしそのシナリオに基づく未来予測は本来不確実性を含むことは当然である。人間にとって科学は決して万能の剣ではない。用、不用を問わず、剣に磨きをかけ続けるのが本来の科学者の姿であろう。

山岸秀夫(編集委員)