2010.9.1
 
Books (環境と健康Vol.23 No. 3より)

 

辻本雅史 著

教育を「江戸」から考える−学び・身体・メディア


日本放送出版協会 ¥762+税 
2009 年 10 月 1 日発行 ISBN978-4-14-910696-0

 

 

 本書はNHK シリーズ“ こころをよむ” として 2009 年 10 〜 12 月、毎週末 13 回に亘って放送されたもののテキストである。本欄でラジオ放送テキストを取り上げるのは異例であるが、その題名と“「江戸の学び」と「今の教育」の間” という「はじめ」の副題に著者の教育にかける熱意を感じた次第である。すなわち自ら自分の姿を見るには目の前の鏡に映すことではじめて可能になるように、現在の教育を歴史という「鏡」に映し出して見ようとの試みである。その鏡も平安期から江戸期まで種々あるが、マスメディアとして文字が民衆に普及し始めた江戸後期が今に連続する面と断続する面の両面が見えて、程よい距離にある鏡だとしている。手習い塾に見られる「江戸の学び」は言葉での大人からの「教え」でなく、子ども自らの「身体」を通した「学び」であるとして、種々の実例を挙げている。しかしその教育を普遍化したのは、江戸時代前期の言葉を文字化した第一次「メディア」革命であった。しかもその文字は東アジア文化圏に共通の漢文であり、その教育思想は中国伝来の儒学であった。江戸時代後期になって、版木に刷り込む商業的大量出版が可能となり、手習い塾での手本類(往来物)が文字学習を容易にした。そこで難解な漢文を日常語に転換した功労者としての儒者、貝原益軒が取り上げられ、“ 天地(大自然)は万物の父母、人は万物の霊なり” との儒学の「身心一体一元論」が自明のこととされ、人は天と地の間に身をおいて連ねられているに過ぎないとの自己抑制の道徳論が展開された。しかし言葉が文字化されることによって排除されたメディアとしての声や身体表現の重要性を主張した石田梅岩による「心学」が文字の読めない民衆に伝えたマスメディアとしての役割も紹介されている。

 本書の後半では、儒学に詳しい著者自身による「江戸の学び」から見た教育観が語られている。すなわち身体性を動員して学ぶ民衆の手習い塾も人間形成の学問を学ぶ武士の藩校も、子どもの言葉の習得に見られるように、大脳を含む身体を回路とした「こころの形成」に関わる身心知(教養知)を目指していた。いのちは大いなる自然(神)の一部であって、個体の持ち物ではない。評者の理解では、「身心は必ずしも遺伝的に決定されるものでなく環境による非遺伝的要因も含まれているので、こころは要素としては同定できない身体回路のバランス機能である」と考えるが如何であろうか?

 さてこのような儒教的教育主体の上に、明治国家は実用的知(専門知)としての西洋学術を取り入れて、西洋科学を教科書として教える国民皆教育の学校の時代を招来した。西洋の学術はデカルトの心身二元論に根ざし、自然は人が観察や実験などで測定可能な側面においてだけ認識される客観世界であった。儒教的世界でいのちの根底にあった大いなる天地自然は神の叡知に置き換えられた。そこで主体として取り残された「こころ」に形を与える容れものは言葉であるが、専門知の総合ではとても及ばない。現在文字を用いる学校教育メディアに対して、音声と映像で表現する電子媒体が社会教育に第2 次メディア革命を惹き起こそうとしている。いずれにせよ経済価値を基軸とした生き方を見直し、「江戸」の学習社会に習い、全ての人に訪れる「死の受容」に備えて「学び続ける」ことに「新たなる価値」を見出したいと結んでいる。

山岸秀夫(編集委員)