2010.9.1
 
Books (環境と健康Vol.23 No. 3より)

 

李 進煕 著

江戸時代の朝鮮通信使 新装改訂版


青丘文化社 \2,300+税 
2009 年11 月30 日発行 ISBN978-4-87924-091-0 C3021

 

 

 韓国民団京都府左京支部は本誌発行の(財)体質研究会の近くにある。そこで昨年秋、2009 年 10 月初旬に、本書と同名のタイトルで「善隣友好の歴史から教訓を」の副題で、神戸から領事を招いて展覧会が開かれたので立ち寄った。案内された展覧室の四方には近年発見された朝鮮通信使の絵巻が展示され、対馬から江戸までの一行の道中記が極彩色で描かれていた。中でも際立っていたのは淀川を遡る朝鮮正使の旗を掲げた御座船であった。御座船は幕府の用意したものであり、対馬藩主の船団が先導し、淀の伏見港からは 500 名に上る使節団、総勢 3,000 人が大名行列以上の格式で堂々と、京都から江戸と練り歩いていた。この絵巻は「鎖国の世」と呼ばれる江戸時代の外交について再考を促すものであった。

 豊臣秀吉を祭る豊国神社の近くに残る耳塚が象徴するように、秀吉は 1592 〜 1599 年に明国を目指して、朝鮮半島に侵攻し、日朝両国人民に多大な傷跡を残して世を去った。しかし 1600 年の関が原の戦いで勝利した徳川家康は元々この名文の無い侵略戦争に反対であった。早速、徳川幕府は積極的に朝鮮との戦後処理に取り掛かり、1607 年侵略を謝罪し、拉致した人々を送り返し、二度と侵略しないことを誓う幕府の国書を提出して、両国政府間に国交を回復し明治維新までの 260 余年間の善隣関係を続けた。1609 年には貿易協定も成立し、釜山の日本公館には 500 〜 600 人の日本人が常駐していた。朝鮮通信使はその善隣の証として朝鮮国王の即位や幕府の将軍継承の度に国書を交わす役目を果たすもので、その間に 12 回に亘って朝鮮側から通信使が派遣された。

 折りしも朝鮮通信使を取り上げた絶版中の本書の新装改訂版の刊行を知ったので早速手に入れた。徳川吉宗が将軍職についたときに、祝意を表するため派遣された 1719 年の第 9 回朝鮮通信使に製述官として随行した申維翰が記録した日本紀行文として「海遊録」が残されている。本書はその記述を手がかりに、1974 年に対馬から江戸まで通信使の通った道を歩いて、現代の姿と照合した著者のフィールドワークである。その強みは、朝鮮通信使が各地に残した踊りや文物、遺跡を検証し、「神功皇后の三韓征伐」のような架空の史実とのすり替えを排除するところにある。実際には通信使は朝鮮の首都漢陽(現在の京城)を出発したのであるが、日本側使節は釜山で出迎えた。かつての侵略への不信感があったので、日本使節団の首都までの上京が認められなかったのである。秀吉の侵略戦争の前進基地として疲弊していた対馬藩が通信使の先導役を引き受けたのは、その生きる道として朝鮮との平和貿易の道を選んだからである。通信使は釜山から対馬を経て、瀬戸内の各港に立ち寄りながら、大阪に入り、川御座船に乗り換えて淀川をパレードして、淀から京都・名古屋を経て江戸へ向かう。一行の江戸往復には 7 〜 8 ヶ月かかった。途中泊まる使館では各藩の文人が馳せ参じ華やかな文化交流の場となった。通信使に対馬から同行した書記官(真文役)の雨森芳州は儒者でありながらハングルも話して交遊を深めている。言葉の分からなかった一般庶民も、その異国の歌舞、音曲は大変珍しい文化として伝わったであろうし、藩校や手習い塾でも生きた大陸儒教文化との出会いがあったであろう。特に江戸では熱烈に歓迎され、江戸市中が休日となるほどであった。

 江戸時代は鎖国によって世界文化から隔離され、長崎の出島という小さな出窓から西洋文明の光が差し込んでいた閉鎖社会と言われるが、実は朝鮮国は政府間で対等に正式な国交を結んでいた唯一の国であり、対馬を通じて大陸と連なっていたのである。関西には大阪城落城を怨念にもつ西軍ひいきが多いが、秀吉は右肩上がりの経済成長を外国侵略に求めた野心家であったのに比べ、家康は持続可能な経済を念頭に国内市場を活性化し、国際協調を重んじた平和主義者であったのではないか。しかしその後天下泰平の江戸時代に終止符を打った薩長連合による明治維新政府は再び朝鮮侵攻を企て、1910 年には日韓併合を強行し、両国人民に深い傷跡を残した。第 2 次世界大戦の敗戦によりわが国は一方的に国の交戦権を放棄したが、周辺近隣諸国との戦後処理は未だ完全には終わっていない。喫緊の沖縄米軍基地問題とも深く関わっていることである。江戸時代は士農工商の身分制度に縛られていたとはいえ、その善隣外交は歴史の鏡として学ぶべき所が多いのではなかろうか。

山岸秀夫(編集委員)