Books (環境と健康Vol.23
No. 3より)
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森 公章 著 遣唐使の光芒−東アジアの歴史の使者 |
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(株)角川学芸出版 ¥1,600+税 |
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現代を映す鏡としての歴史も時代を遡るほど史実の断片化が進んでぼやけてくる。それだけにその残った小断片を綴り合わせたロマンを描き出す楽しみが現代人に残されている。本号 Books では他に約 300 年遡る江戸時代 2 編と現代 1 編を取り上げているが、ここでは約 1400 年遡る飛鳥時代の遣唐使を、明治時代の急激な文明開化のさきがけとして取り上げて本書を紹介する。 本年 4 月 24 日から平城宮跡を会場として平城遷都 1300 年祭が開かれ、その平城宮歴史館の前には原寸大の遣唐使船が復元展示されていた。全長約 30m、マスト高約 15m の帆船で、乗員 150 名とのことであった。約 40 年前にボストン市郊外の博物館で見たメイフラワー号の復元とほぼ同じ大きさであるが、遣唐使船には勿論羅針盤はなく、航路案内は陰陽師次第の命懸けの旅であった。しかも唐の都、長安(西安)で元日朝賀に列席するためには、その半年前に出発しなければならず、当然秋の台風の季節に遭遇した。遣唐使はまるで今様宇宙飛行士であった。第1 回の派遣事業は飛鳥時代、630 年に始まり、天平時代を通じて平安時代初期まで、唐代のほぼ全期間、約 260 年間に約 20 回計画された。7 世紀の前期遣唐使の時代は、朝鮮半島に百済、新羅、高句麗、3 国が分立しており、比較的安全な黄海を経る北路を利用できたが、8 世紀以降新羅によって半島が統一されると、後期遣唐使は東シナ海を経由する危険な南路に追いやられる。船団は前期では 2 隻、後期では 4 隻を基本としたが、その半数は船員で到着地付近に留まり、帰帆までの 1 年間は地方文化に接していた。実際に長安まで上京できたのは、ごく一握りの人々であった。その国書を携えての遣唐使派遣の目的は、思想的には仏教の整備と政治的には中央集権的律令国家の構築のために唐の律令法を導入する事にあったとされる。その際わが国が儒教は受容したが道教を拒否したのは注目される。その結果として早速唐の都長安に模した条坊制の都が構想され、710 年に藤原京から平城京への遷都が実現し、天平時代を迎える。さらに則天武后の皇帝の時に統一国家としての日本国号を認知させたが、従来の朝貢国の版図外の東の小国としての位置づけであった。その間、唐側からの使者の到来はなく一方的なものであった。 遣唐留学者には、留学生(長期留学)と請益生(短期留学)の区分があった。前者は次回の遣唐使が到着するまでの 15 〜 20 年間滞在して唐文化を取得したが、後者は遣唐使の滞在期間約 1 年のうちに集中的に課題に取り組んだ。真言密教を伝えた空海は前者であったが、天台密教の最澄は後者であった。平安初期の最後の遣唐使船で渡海した最澄の弟子である円仁は、道教に傾いた唐代末期の仏教弾圧の中で経典を持ち帰り、「入唐求法巡礼行記」を記し天台密教を再興した。長安から追放され帰国途中の円仁の足跡が洛陽郊外の寺院の石版に残されていたことを 7 月 10 日の朝日新聞が報じた。しかし遣唐使派遣事業の中止後もむしろ大陸からの人や文物の流入は加速・倍加しており、鎌倉時代末期の元寇の役や豊臣秀吉による明の都を目指した朝鮮半島侵攻の不幸な時期を除けば、多数の禅宗高僧の招来など概して友好的な日中交流の下に「国風文化」が江戸時代まで育った。ところが、その後明治維新の西欧文明の移入によって富国強兵に成功した日本が始めた侵略戦争によって日中関係が踏みにじられた。その反省の上に立って、1978 年に両国の間に正式な日中平和友好条約が締結された。遣唐使派遣の時代に遡って、東洋の先進国としての中国文化を謙虚に受け止めていきたいものである。 山岸秀夫(編集委員)
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