2010.5.28
 
Editorial (環境と健康Vol.23 No. 2より)


子は親に似るか?


山岸 秀夫

 

 

 ひな祭り気分の漂う弥生の第2 日曜日、大安吉日の 14 日は快晴に恵まれ、京都洛西梅津にある授子安産の守護神である梅宮大社の神苑はまだ梅の香に包まれていた。お宮参りの儀式の鉦や太鼓と共に、本殿裏の楠の大木に架けた巣から飛び立つコウノトリとおぼしき雄姿に新しい「いのち」の訪れを感じた。本号特集でも触れられているように、世界的大流行が予想されたインフルエンザも早期防疫で収まりつつあるのか、マスク姿はほとんど見かけなかった。一方目を転じて現実の社会を見ると、テレビや新聞紙上では、「親の養育放棄」や「子の介護放棄」が連日のごとく報じられていた。 わが子が自分に似ていないからといって虐待する母親などはもっての他である。むしろ新しい「いのち」に、その母親に秘められている能力の開花こそが期待されるのである。

 そこで、このような悲惨な世情を憂い、代々受け継がれてきた「いのち」のリレーを遺伝学の立場から再考してみる。まず本タイトルの「子は親に似るか?」との問いに対しては如何に答えたらよいのだろうか?先ず父親の精子の一つが母親の卵子の一つと細胞融合した単一の受精卵細胞から由来したと答えるのは容易である。従って、「私は両親に似ている」、「子どもは親に似ている」のは当然と考えられている。しかしよく考えてみると、実はそれほど単純な事ではない。私達ヒトの身体を構成する体細胞には、両親に由来する 2 枚の設計図(ボディプラン)が組み込まれている。それぞれ 1 枚の設計図をゲノムと呼び、細胞機能に必須の最小単位情報を持っている。実際には、ヒトの 1 ゲノムはほぼ 2 万個の遺伝子を運ぶ 23 本の染色体のセットである。体細胞は 2 セットのゲノムが互いに相補的に働いて安全を期しているので 2 倍体である。体細胞の分裂時には、それぞれの染色体が予め倍増(複製)してから 2 等分されるので、増殖後のゲノム量は不変であり、それぞれ特異的な遺伝子を階層的に発現して各種器官を形成する。しかし次世代に身体情報を伝える生殖細胞の卵や精子などの配偶子は、2 セットのゲノムを半減する減数分裂によって 1 倍体となる。この際に両親由来のそれぞれ 23 対の相同染色体は無作為に分離するので、配偶子での両親に由来する染色体の組み合わせは計算上 840 万という驚くべき数になる。しかも減数分裂に先立って対合する相同染色体間で遺伝子 DNA の組み換えが生じているので、その組み合わせの数はさらに想像を絶する値になる。それにもかかわらず次代に伝えられる各配偶子の単一ゲノムセットからは、元の体細胞に存在していたゲノムの片方は完全に失われている。それにしても多様な配偶子相互の結合としての単一受精卵での組み合わせ数はさらに増えて日本の国家予算総額に近い数十兆にのぼる。

 子宮内に着床した受精卵(2 倍体)は分裂を繰り返して発育し、胎児後期には体細胞系列から分かれて生殖細胞系列が発達し、始原生殖細胞が出現する。女性には約 40 万個の卵原細胞があるが、思春期以後成熟卵として排卵されるのは一生涯でほぼ 400 個である。男性での精原細胞は、思春期以後持続的に増殖して精子を形成し、精液 1 立方ミリメートル当たり約 5 万個の精子を含む。従って、その中の男女の一つの組み合わせで無事誕生する「いのち」はとても簡単に予想できるものではなく誠に幸運な当たりくじと言える。その当たりくじの受精卵は母親の子宮の中で約 40 週間、内なる異物として寄生して胎児期を過ごし、出産後の新生児もしばらくは母体の免疫系に守られ、母乳で栄養補給された乳児はほぼ 1 年後やっと一人歩き出来て、初めてヒトの仲間入りを果たす。母親にとっては、「腹を痛めた」子でありながら、その後母親だけでなく父親に似たり、祖父母に似たり、時には他人の空似を交えながら、環境の影響も受けて人格が形成される。

 ところで最近ヒトの胎児後期に驚くべき遺伝情報発現の書き換えが行われていることが話題になってきた。その分子機構が明らかになったのは今世紀に入ってからである。一つは X 染色体の不活性化(ライオニゼーション)と呼ばれるもので、両親に由来する相同な性染色体の X 染色体を有する女性に固有の現象である。発生途上どちらか一方の X 染色体が無作為に凝集して体細胞分裂を続けるので、発現するのは他方の凝集していない X 染色体上の遺伝子に限られ、X 染色体上の両親の形質はモザイク状に発現する。その有名な哺乳類の例は両親の黒色と茶色の入り交ざった毛皮模様の三毛猫であり、必ず雌猫である。

 二つ目は、ゲノムインプリンティング(ゲノム刷り込み)である。性別に関係なく両親に由来する体細胞常染色体の対立遺伝子は原則として同じように発現するが、その約 1 %に当たる 100 〜 200 遺伝子に関しては、どちらか一方から由来した染色体でしか働かない現象である。これを父親由来か、母親由来かという遺伝子の出自がゲノムに刷り込まれていると言う。この刷り込みも胎児期後期の始原生殖細胞中で、男女とも一旦全て消去される。そして男性の場合は、父親型の刷り込み直しが両対立遺伝子で行われ、将来の精子形成に与る。母親型の刷り込み直しも女児始原生殖細胞中で同様に行われ卵形成に与る。このことは、受精卵での両親のゲノムの存在は胎児のその後の成育に不可欠である事を物語っている。男女の別なく、子どもが父親で発現していた父親型刷り込み遺伝子を受け取った場合は父親に似るが、父親で発現していなかった父親型刷り込み遺伝子(父方祖母由来)を受け取った場合は、父親でなく父方の祖先の誰かに似ていることになる。母親型遺伝子に関しても同様である。近頃話題になっている体細胞由来のクローン動物の場合は、胎児期での生殖細胞への刷り込み直しが省略されているので、刷り込み遺伝子の発現に関しても細胞の由来した動物と全く同じである。体細胞クローンが初期発生をやり直すときも、分化した細胞の目印は一旦消えても父母由来遺伝子の刷り込みは消えない。

 以上の考察から、遺伝情報の誠に稀な組み合わせとして母親から誕生した幸運な当たりくじの私にも、X 染色体遺伝子のモザイク的発現(女性の場合)や無作為のゲノム刷り込みの結果として、必ずしも両親に限定しない遠い祖先に遡る遺伝情報の再現が行われている事がわかる。大野乾著「先祖物語」(羊土社、2000 年)によると、現在の私一人の先祖の数は、ヒトの一世代を最小 20 年(生殖年齢)と見積もれば、20 代前、すなわち江戸時代初期の 400 年前では 100 万人という数になる。「私のいのち」は少なくとも 100 万人のヒトの情報に支えられて、両親の手厚い庇護の下に誕生した唯一無二(オンリー・ワン)の「考える葦」である。私を取り巻く人たちは全て、遠いにしろ、近いにしろ、親戚として連なっているのである。本号サロン談義「生物多様性を考える」でも取り上げられているように、「私のいのち」を「私達、人類のいのち」と置き換えて、生物進化の過程を考える時、それぞれのヒトの「いのち」が地球に現存する全ての生物の多様な「いのち」と共存することの意味が今問われている。