Books (環境と健康Vol.22
No. 3より)
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濱野清志 著 覚醒する心体−こころの自然・からだの自然 |
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(株)新曜社 ¥ 2,400 +税 |
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本書は、心の病のカウンセリングの中で感得した、臨床心理士の喜びを読者に伝えようとするものである。著者は、物質としての身体は同時に身体を生きている〈私〉の固有の感覚でもあり、それを心の働きの証とする。したがってタイトルの〈心体〉は〈身体〉ならぬ〈心身一如〉を表している。しかしその〈私〉の感覚は錯覚も含めて「気のせい」とされるが、この主観的〈気〉の体験領域は他者にも存在する。したがって〈気〉には、科学的思考に必須の〈客観性〉も〈普遍性〉も存在しない。あえて評者が対応する言葉を探すならば、〈共感(気配り)〉と〈多様性(個々の真実)〉ということになろうか? 著者は最近本誌関連プロジェクト「いのちの科学」第28 回例会で講演されたが、科学の限界を強く感じさせられるものであった。 中国のさまざまな心身修養技法の総称として「気功」がある。時にマスコミが興味本位に超常現象として取り上げることがあるが、「気そのもの」と呼べるような単一のものは存在せず、ましてや科学の実証的研究の対象とはならない。心体を覚醒させる気功の証は「眼を軽く閉じてただ立つ」体験であるとする。「やがて、あたかも大地にしっかりと根を生やした樹木が立っているかのように、自然に天と地の間(天地人)を繋いで立つしっかりとした柱になったように感ずる」とのことである。すなわち自らを取り囲む環境と有機的につながり、そこに「生きた環境」を形成するのである。早速、評者も近くの鎮守の森の静寂の中で体感し、神に敬虔な祈りを捧げる人々の心がわかるような気がした。著者は心理療法の場でも、他者を、柔軟な個々別々の「生きた環境」の再構成の要素として共感し、気を配っている。その成功例として不登校状態の少年の「生きた環境」の創造が描かれている。評者も現役時代、京都大学理学部学生懇話委員として不登校生から「生きた環境」の場として大文字山の魅力を聞き出し、一緒に体感したことがある。 著者は最後に『人はみなそれぞれの「生きた環境」の中での主(あるじ)である。決して他者の主になることは無い。主どうしが自然に語り合うことが出来る時、それぞれの「生きた環境」の創造ができる』と結んでいる。 互いが余り干渉しないで、小さな世界に充足している現代社会の中で真に求められるのは、理解しがたい遠い他者にも耳を傾け、その違いを認め、その生き方を尊重し、共感できることであろう。そこに有限の「いのち」の共に生きる喜びがある。
山岸秀夫(編集委員)
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