2009.6.3
 
Books (環境と健康Vol.22 No. 2より)

 

マルコム・ゴールドスミス 著(寺田真理子 訳)

私の声が聞こえますか
−認知症がある人とのコミュニケーションの可能性を探る


雲母書房 ¥2,500 +税
2008 年 11 月 30 日発行 ISBN978-4-87672-259-4

 

 

 本書は英国の代表的な認知症ケアの研究機関の研究員である著者が 1996 年に出版した評価の高い本であるが、既に 10 数年を経ている。その日本語訳が、幼少時南米諸国でのゲリラ活動に脅迫されたりした体験を持つ翻訳者の「著者のメッセージをどうしても伝えたい」との熱意によって、最近漸く出版された。しかもその日本語版は極めて数奇な運命を経た強運な本である。すなわち 2008 年 8 月 29 日に訳者の自宅が落雷によって全焼したが、本稿はその直前に入稿されていたのである。

 認知症は脳の器質的障害によって記憶力や判断力が徐々に喪失する症候群とされており、英国の 1992 年の統計でも 65 歳以上の高齢者では 6%が罹患している。そこで著者は「認知症は壊れた機械のように扱われるべきでない。認知症になってもいろいろなことが分かっている、出来る事は沢山ある」との熱いメッセージを読者の一人一人に届けようとしている。著者は、広範な文献調査と認知症の人たちとのインタビューの上に、千人に及ぶ認知症ケアの専門家や家族介護者に対する 10 項目のアンケートで具体的に意見を求め、認知症患者本人とケアに関わっている人たちの本心を本書に集約し、代弁している。実証に基づく医学(EBM)と物語に基づく医学(NBM)との見事な結合である。

 本書の全貌を紹介することは不可能なので、要所に触れることにする。最初に、認知症が進行しても依然として「その人」がそこに残っている事を祈って、患者の声を聞く試みが述べられている。そこでは、「患者とのコミュニケーションは可能である」との信念に基づき、介護者には患者と共に思考の過程を遅らせる時間の余裕とスキル(芸術)が必要である。このことは介護の経済性と矛盾するようであるが、実際には、その人を中心とした(パーソンセンタード)ケアの方がコスト効果と有効性は上がる。介護者を経験豊かなテニスコーチに例えると、「相手の打つボールに追いつき、相手が打ち返せる所にボールを届ける事」である。すなわち患者に無力感を与えず、自分自身で出来る方法を探してやる事である。コミュニケーションのスキルとして、患者のライフストーリーを活用して、「自分が自分である事を認識できなくなった以前の家系図の木を登ってそこからの眺めを楽しませる事」も有効である。外部環境は勿論の事、音楽、芸術、五感を総動員するアロマセラピーなどの非言語的コミュニケーションも挙げている。ここでは、「ヴェニスの商人」のポーシャの言葉、「慈悲が空から注いで、この大地を潤すようにあるべきだ」を引用している。また患者の挑戦的な行動(暴力)もコミュニケーションの一つととらえて、ここでは、マーチン・ルーサー・キングの「暴力とは、聞いてもらえない者の声である」を引用している。逆に患者の「助けて」に対しては、介護者は「自分自身を見つけられるように助けて」と理解して、「微笑み」で答える。患者相互のグループワークがコミュニケーションを高める可能性も示唆している。

 本誌前号(22 巻 1 号)のサロン談義6「資本主義の行方」では、サブプライムローンに発した世界金融恐慌のリスクが取り上げられ、本号の JCSD プロジェクトシリーズでも、「リスク社会を見る目」と題してリスク論が展開されている。とりわけ高齢者で急増する認知症のリスクは無視できない。船が難破して夜の海に投げ出された漂流者にとって、波頭の間に見え隠れする救助船の灯りが近づいて来るのか、遠ざかって行くのか、どちらに見えるのかは生死を分ける大問題である。

 

山岸秀夫(編集委員)