2008.12.4
 
Editorial (環境と健康Vol.21 No. 4より)


ある大学教授の定年後の生き方


菅原 努*

 

 

 これから団塊世代がいっせいに定年を迎える、しかも平均寿命が延びて、「定年後 20 年は生きる」ということで定年後の人生の暮らし方は、広く取り上げるべき話題としてふさわしいものと言えるでしょう。じつはこの雑誌はその編集委員の主力が大学の名誉教授、即ち定年をすぎた大学教授たちであるということです。だから定年後の生き方を考えることは自然にこの雑誌のあり方にも関係してくると思います。自分たちとしては一生懸命に努力して特色はあるが一般向けの学術雑誌を目指しているのですが、どうしてもその癖が抜けず、変わった雑誌だと思われたらそのせいかもしれません。

 私は定年になって退職してからもう 25 年近くになります。この間に沢山の知り合いの大学教授が定年を迎え、私もその人たちの幾人かについて、その後の様子を垣間見てきました。一番多いのは定年後どこかの私立大学でうまく行けばもう一度教授になる、しかし大抵は「非常勤の講師として何年か働き、それが 70 歳くらいで二度目の定年を迎える」という形です。勿論もっと偉くて学長や研究所長、病院長などをされる方もあります。しかし、それはそんなに多くはありません。その方々もいずれ二度目の定年を迎えられます。これを読まれた方は、「矢張り大学教授は恵まれているなあ」と思われるでしょう。でも大抵はこれでしまいです。大学では名誉教授といういい称号をくれますが、これには一銭の手当てもついていません。しかもみんな長生きになったので、私の勤めていた京都大学でも、教授より名誉教授の方が多いくらいです。でも京大は名誉教授を大事にしてくれて、いろんな会合に招待してくれます。しかし、多分これは例外でしょう。私はもう一つ病院の名誉院長という称号をもらっていますが、その病院からは普段何の連絡もありません。

 さて、ここで私の言いたいのは、70 歳まで仕事を続けられてよかったとして、それから人生 80 年ではまだ 10 年以上生きていくことになる、それをどうするかを考えたかということです。私の経験ではこの 70 歳代が一番良かったのです。これは今回サロン談議で「愛国心について」を書いておられる岡本道雄先生から、先生が 80 何歳かになられたときの感想として言われた言葉、「君、人生70 年代が一番良いよ。未だある程度体力はあるし、もう何にもとらわれる必要はないし、自由にやりたいことをやればよい」の通りです。

 そんな事を言っても、「もう勤め先の大学の研究室もないし、自宅を事務所にすると家内に嫌がられるし」ということになっては何も出来ません。それには自前で事務所を持つより仕方がありません。私は大学教授や国立病院長を務めましたが、これらは公務員です。最近公務員の不正がしばしば問題になっていますが、公務員はあくまで国民のために働くもので、そのためにいろんな制約があることを忘れてはなりません。それを思うと何かにつけて不自由でしかたがありません。そこで 63 歳で、自分で定年ということにして退職し、その後は何処にも勤めないことにして、自分の事務所を持ったのです。これだけでは、何だ Editorial をかりて自慢話かということになります。それが今から 20 年前、少し大きい事務所が借りられる見込みがついたときに、それを開放して名誉教授の活動拠点にすることを始めました。知識のリサイクルの場であり、名誉教授の憩いの場でもあるものとしてイメリタスクラブと名付けました。私も寄る年波には耐えず数年前にその会長を鳥塚莞爾京大名誉教授にお願いしましたが、この 11 月 1 日に創立 20 周年の祝賀会を開いて盛大に祝って頂きました。

 実はこのイメリタスクラブの構想は、私自身のものではなく、創立の 1 年前の 1987 年 5 月 18 日の Current Contents 誌にあった“A haven for the emeritus” という記事に刺激されて考えたものです。Haven というのは余り聞きなれない英語ですが、安息所とか停泊所とか言う意味のようです。このことは 10 年前に本誌の Editorial に「日本病とイメリタスクラブ」と題して資料もつけて詳しく書きました(本誌11(1)1 − 6,1998)。要するに今まで国の費用で勉強してきた大学教授に、その知恵をリサイクルするための場を提供しようという趣旨の主張でした。そこには専門を問わないいろんな分野の名誉教授またはそれに相当する人たちが集まり、共同の事務所(教授室に相当する)を持ち、そこから社会に働きかけていこうとするものです。幸い京都ではそれが成功し、無事に 20 周年を祝うことが出来ました。でもそれなりにいろんな苦労がありました。それはある意味で我々の世相を現しているとも考えられますので、その一端を披瀝してご参考に供したいとおもいます。

 先ず、初めに予想しないことが起こりました。それは肝心の教授秘書に相当する女性陣が、「こんな年寄りばかりのところでは勤まらない」と、皆辞めてしまったのです。教授秘書というのは虎の威を借りる狐ではありませんが、何となく偉そうです。しかし、イメリタスクラブの秘書は、世間知らずの大学教授の成れの果てを多数世話しなければならないのです。そう言われても無理ない点もあったのです。そこで私はあわてて昔の秘書で、もう立派なお母さんになっている人に頼んで助けにきてもらうことで、ようやく一息ついたのです。それとともに自分でも新幹線の切符を買いに行ったりホテルの予約をしたり、少しは世間的なことを自分でするように心がけてきました。でもその後もこの問題は完全に解決したわけではありません。

 メンバーには理科系のいろんな分野の方々が集まってくれましたが、どうしても人文系の方が得られません。これは 20 年経っても成功していないので、学問の性質がどうしてもこのような集まりには適しないのかと、何となく納得していますが、残念なことです。でも違う分野の専門家が、集まって話していると、自然に何か新しい方向が浮かんでくるように思えるのですが。そこでせめて編集委員会のようなところには文系の方にも加わっていただくように心がけています。

 そのことは同じような組織を日本各地に、出来たら世界各地にと思うのですが、一向に実現しないことにも反映されています。私も協力して東京に出来た同様のクラブは、残念ながら原子力関係者だけで構成されています。糸口をきって私にアイデイアを与えてくれたアメリカにも、出来たという話は聞きません。複雑系研究所や最近ではシステム生物学研究所のような、広い分野の専門家を集めた組織は出来ていますが、それは自由にいろんな分野の人が集まる私たちのものとは少し違うように思われます。あるいはこれは日本独特の社会システムの生み出した物かも知れません。これはもっと真剣に検討するべき課題であると言えるでしょう。

 では、「その組織は社会に対してどのような貢献をしてきたか」と言われると、私は欲張りですから、単なる知識のリサイクルにとどめないで、何か作り出していきたいと考えました。そうして動物実験代替法研究会(後に学会)や太陽紫外線防御研究委員会などが生まれました。その他活動の様子は広報誌「百万遍通信」や本誌を通じて社会に広報していますが、目立つことが目的ではないので、残念ながら余り世間では知られていません。でも我々なりには、今の社会に必要だと考えたことで出来ることをやってきたと思っています。少なくとも幾つか我が国で重要と思われる学術広報活動の出発点になりえたと自負しています。

 20 周年という記念すべき機会に、この「イメリタスクラブ」という世界に例を見ない組織のことをご理解いただき、今後各地に同様の組織が出来、大学教授に限らず学問を職としてきたものの、定年後の活動の場が拡がっていきその成果が社会にも還元されることを期待してこの小文をしたためました。

 


 *(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長、
京都大学名誉教授(放射線基礎医学)