2007.6.13
 
Books (環境と健康Vol.20 No. 2より)

井上昌次郎 著

眠りを科学する


朝倉書店 ¥3,800+税
2006年11月20日発行 ISBN4-254-10206-2 C3040

 

 

 本書はタイトルから類推されるような、単なる不眠症克服の指南書ではなく、遥かにスケールが大きく、大脳の無い単細胞生物や植物・無脊椎動物までも含む全ての「いのち」に対して、「睡眠とは何か」の問を投げかけつつ、しかも複雑系としての「いのち」に対するその答えがまだ不十分である現状を率直に認めている。

 素人的にも、熟睡中の「ノンレム睡眠」と夢みがちに寝ている「レム睡眠」はよく経験されている事である。しかしこれらは、大脳を持つ高等脊椎動物の脳波から分類された「脳波睡眠」であって、(鳥類、哺乳類に見られる)「真睡眠」と呼び、脳波的に未分化の「いのち」の行動観察から判定される「睡眠様状態」を「行動睡眠」、「原始睡眠」として区別している。その中間の発展途上の状態を(爬虫類に見られる)「中間睡眠」としている。この様に「睡眠」を広く解釈すれば、生物界全体に共通する1日周期の活動・休息リズム(概日リズム)の休息相を指すことになる。先ず最初に常識的なヒトの睡眠観を打ち破られた評者はショックを受けた。続いて、神話時代に遡って東西睡眠論を展開し、睡眠物質の精力的探求の行なわれた1960年代以降の現代睡眠学の現況を紹介した後、動物行動学、神経生理学、心理学、精神医学、神経学、内科学といった伝統的学問領域の枠を外した、学際的な学問としての睡眠学の展開の必要を説いて第1章が終わる。

 第2章「睡眠は大脳を創る」では、乳幼児の発達過程での睡眠と覚醒を調べ、「大脳を活性化するレム睡眠」と「大脳を鎮静化するノンレム睡眠」の相補性を示している。第3章「大脳は睡眠を創る」では、系統的に様々な生物の「行動睡眠」を概観した後、種々の鳥類や動物が、本来外敵に対して最も無防備な状態としての睡眠を如何にうまくとるかに注意を払っているかの例を示している。

 第4章「睡眠は大脳を守る」からがいよいよ本論である。ヒトの脳には「眠る脳」(大脳)と「眠らせる脳」(前脳基底部から脳幹にかけての睡眠覚醒中枢)があり、後者が種々の「液性機構」で統御され、その中には、睡眠誘発物質としてのプロスタグランジンD2や著者自身らが発見した脳内解毒物質としてのグルタチオンなど、多様な睡眠物質がある。そこに気象、昼夜リズム、ストレス、運動、加齢など種々の外部環境の影響が加わってくる。したがって、「眠るか?眠らないか?」は「眠る脳と眠らせる脳との合議」で決まると考えている。このように「眠り」といえど、単純な因果関係では決まらないので、複雑系を解明する学際的学問としての睡眠学が求められているのである。第5章「睡眠は大脳を賢くする」では、特に複雑系としてのヒトの睡眠の、枠にはめられない個々の多様性が強調されている。脳内には、昼夜の概日リズムを発信する生物時計と時刻にかかわりの無い、短い周期のホメオスタシス(恒常性維持)機構がある。高次神経活動で疲れ果てた大脳には「ノンレム睡眠」という休息が必要だが、覚醒の前には、その準備段階としての「レム睡眠」が必要である。

 本来夜行性行動に限定されていた哺乳動物の系統から派生して、色覚を獲得した霊長類は昼間も活動できるので、より安全な夜間に大脳の休息時間を集中して、概日リズムにホメオスタシスを合わせて、大脳の活動リズムにメリハリをつけることに成功した。しかし、今や夜を追放した現代文明社会では、再びこの概日リズム(生物時計)とホメオスタシスとの不調和による睡眠障害が激増し、睡眠の専門医が必要とされるに至った。

 本書は、30数億年に亘る地球生物の進化の歴史の中での「やすらぎ」の時間として、普遍的に「睡眠」を捉え、「ヒト」で特殊化した「睡眠」の多様性を理解させ、その正しい睡眠の知識を提供してくれている。

 

山岸秀夫(編集委員)