2007.6.13
 
Books (環境と健康Vol.20 No. 2より)

マーク・S・ブランバーグ 著(塩原通緒 訳)

本能はどこまで本能か−ヒトと動物の本能の起源


早川書房 ¥2,000+税
2006年11月30日発行 ISBN4-15-208777-3 C0045

 

 

 本誌前号(20巻1号)にて、川出由己著「生物記号論」をBooks談義に取り上げ、<「こころ」は生物進化の最初から内在した記号である>との物心一元論に一応納得させられた評者にとって、2005年原著の本書は、再び新たな深刻な問題を「私のこころ」に提起した。

 最初に<動物のやることに関して、それを本能のせいでやっているというほど簡単なことはない>とのJ. A. ゲール(1749)の言葉を引用し、本能の科学的意味を考え直そうとするのが本書の意図である。そうすれば、本能はまさに広く生物に内在した記号であって、果たして科学的アプローチが可能なのかどうか疑問に思われてくる。本号Booksで同時に取り上げている、井上昌治郎著「眠りを科学する」で述べられている生物一般の「行動的睡眠」も正に内的次元として解釈されるものである。本書は8章からなるが、逐次章を追うことは止めて、評者の所感を中心に抜き書き的に紹介する。評者は分子遺伝学を専門分野としていたので、<生物進化の過程で、ゲノム遺伝情報がデータベースとして拡大し、遺伝子としてのその発現が集団内で固定されたものが偶然の変異として自然選択され、多様化した生物界を形成してきた。内的次元としての「こころ」もその例外ではない>と考え、本誌19巻2号のEditorialに<「天」は先に考え「人」は後から考える>と題して掲載した。これはすなわち<本能は自然選択によって出来た遺伝設計>とのC. ダーウィンの考えであって、生得論者と呼ばれる。しかし、ダーウィン以前は、<本能は神が動物に与えたもので、理性(知性)こそが人に与えられた特有なもの>とされていた。両者の区別として、本能は、先天的、遺伝的、生物的なもので、学習不能とされたのに対して、理性は、後天的、環境依存的、心理的なもので、学習可能とされた。しかし発達心理学者の多くは、本能的行動とされたものといえども、その多くは実は、発達の過程で無意識にせよ、環境の影響を受けた学習の結果であると見る反生得論者である。

 I.P. パヴロフによると、<本能の生物学的側面は生理的反射反応であって、本能と考えられていたものの多くは、胎児以降の学習の結果である>とのことで、その多くの実例がある。ところが生得論者は、無意識の誘導尋問によって本能と誤認しているのである。ここには、<生まれか育ちか?><氏より育ち?>の問題が隠されているが、その境界は大変難しい。イヌのように家畜化されたエリートキツネ、孵化後最初に動くものを母親として刷り込まれる小ガモ、孵化前から外部の母鳥の鳴き声を学習するニワトリの雛、多胎のハツカネズミの子宮内で、偶々オスの間に挟まれたメスの雄性化など、遺伝子決定論に問題を投げかける心理的事象の多くが示されている。そこで著者は敢えて人間の本質を発達順に挙げて、<直立歩行、手の指が向かい合わせになる(つかむ)、毛皮が無い、大きな脳をもつ、一度に一人の子を産む、喉頭が「のど」の低い位置にある(声が出る)、優れた視覚、弱い嗅覚、7つの同時記憶能力、記号を使い言葉を発する>などの総和として人間を理解している。

 今や動物行動学の祖とされる、C. ローレンツ(1973年ノーベル賞受賞者)の動物行動研究の中心にあった本能の概念まで脅かされる事態となって来ている。重要なのは、<動物が隔離されているか>ではなく、<何から隔離されているか>だということで、ローレンツが経験と学習を同義と考えたのに対して反旗を翻した、反生得論者のD. S. レーマンは、1972年に生涯を閉じたが、<発達に影響を及ぼす生物・環境間の相互作用は全て経験に含まれる>と主張した。DNAデータベースとして「いのち」の設計図が既に存在する今日、再び「知性と本能との間の境界」について考えるべき時期に来たと考えられる。

 

山岸秀夫(編集委員)