Books (環境と健康Vol.20
No. 1より)
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内堀基光、山下晋司 著 死の人類学 |
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講談社学術文庫 ¥1,100+税 |
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本書の原本は既に1986年に弘文堂より刊行され、以後死に関する本は爆発的に出版されているが、著者たちの提起した問題は現在も人類学の論争的なテーマとされているので、改めて学術文庫に入れるに当たっても、原本は改訂されていない。筆者はこれをむしろ20年の風雪に絶えた著者たちの自信作の証しとして受け取り改めて本誌Booksに取り上げた。 生死として「死」を「生」に対置させると、普遍的な言葉となるが、「死」は「死ぬこと」とは同義ではない。「死ぬこと」には必ず個別性、物語性がある。P. アリエス著「死を前にした人間」(1977)では、ヨーロッパ文明社会について、(1)飼いならされた死から、(5)転倒された死まで、死に対する人々の態度の歴史的変遷が述べられている。(1)は中世前期までに見られたもので、死は眠りのような休息への入り口であるが、(5)は死の現実を覆い隠そうとする現代の死であり、死を汚れたものと見做して病棟に閉じ込めた結果として、無防備の個人に直接的に襲い掛かってくる。 そこで本書では、文化と共に変わり行くものとしての死の分析でなく、2つの対照的な未開文化に於ける死について人類学的考察を行なっている。各2章を割いて、南太平洋のほぼ同緯度に位置するボルネオ島(マレーシア)の焼畑耕作民であるイバン族と、セレベス島(インドネシア)の棚田水稲耕作民であるトラジャ族を取り上げているが、いずれも現在までイスラム文化以前の固有の基層文化を保持している。いずれもかっては、いわゆる「首狩り族」として恐れられていた。最後の第6章で両者の死を比較し、「未開の死」から「現代の死」を再考している。 イバン族は、川岸のロングハウスと呼ばれる杭上住宅に大家族で住み、階層分化の見られない平等社会である。トラジャ族は山の民で、内陸部の田園風景に見え隠れする船型屋根の家屋に住み、社会的階層分化が顕著である。しかし共にあらゆる現象、事物に霊魂の存在を認め、超自然の秩序にしたがうアニミズムの世界である。明白な身体と霊魂の二元論であり、分身としての霊魂が独立した時、身体が「死者」となる。共に死者と生者との分離としての死者儀礼はあるが、イバンでは、死霊は死体と共にしばらく住居に置かれ、最終の儀式としての死者祭宴まで、死体処理は行なわれない。その間に死者の勇姿が物語られる。死者祭宴は生者が死霊のために行なう華麗な祭りであり、正装した村の若い女たちにとっての絶好のお披露目の機会でもある。死者と生者との統合、文化の継承と相続、社会の富の再生産の場でもあり、この儀式で死霊が死んで霊魂となって自然のリサイクルの中に帰り、やがて生の再生産が始まる。すなわち、生者の共同体は第2の葬儀によって攻勢に転じ、最後の死者との別離を公的に確認する。 イバン族の死が「死霊の世界」という観念の体系で特徴付けられるのに対して、トラジャ族は死者儀礼を重視して、「死ぬために生きている」実践社会である。「死が生を与えている」「死を生きている」とも言えよう。死は物事の終わりでなく、生の契機として位置付けられている。その地位社会の階層を反映した華麗な儀礼の執行が死の判定ともなっている。葬儀は死の劇場性を持っており、死者の洗浄儀礼後に、遺体が第二次祭宴の広場に安置され、弔問客の接待が始まる。多くの水牛やブタが慣習によって殺害、解体され、生贄の動物の魂と共に死者の霊魂も不滅の祖先神や自然の神々となる。死者の残した財産としての水田は、祭宴に供出した水牛の頭数によって分けられるので、遺産相続の経済学でもあり、リーダーシップを巡る政治学でもある。すなわち、トラジャの死者祭宴は「死」を「生」に転換する公的技法である。 翻って、現代産業社会は「死」を追放した社会であり、生の過程から死の具体性の多くが奪われ、「死」は自己がそれに直面するまでは、遥か遠くの特殊な空間、病院の一室に閉じ込められている。死後の処理は殆どの場合、専門の葬儀産業の手に委ねられ、「死ぬこと」の物語り性は、難解な読経に要約され、儀式化されている。「語りの世界」も「儀礼の世界」も元来宗教に備わっている重要な文化の伝達法であり、前者は聴覚的記号であり、後者は視覚的記号である。「死」ではなく「死ぬこと」は「生物記号圏のつむぐ物語」であって、「生物進化が演出されてきたとも言えよう(川出由己著「生物記号論」、京都大学出版会、2006年11月20日発行)。 こうして見ると、二つの民族の対象的な「未開の死」のあり様は、人類の「現代の死」の全体像に含まれてくる。J. ゴーラー(1955)が「死のポルノグラフィー化」と呼んだように、「生」が「性」と結びついて獲得したプラス価値の分だけ、「死」はかっての「性」の様に人前から忌み隠されていった。その結果として「死のゲーム感覚化」「リセットできるいのち」(山中康裕著「子どもの心と自然」、東方出版、2006年7月25日発行)が「現代の死」に浸透しつつあるとするならば、「未開の死」を改めて見なおす契機としての本書の文庫化に今日的意義を見出すものである。 山岸秀夫(編集委員)
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